タテイト、ヨコイト

ワンテーマでひとくさり書くとして、通常、完成稿のアイデアだけ発案して最短距離で作り上げるなんてことはできやしない。当たり前のことだと言うだろうか。これをはっきり意識したのは恐らく初めてだ。これから繰り言を重ねていく時のディレクションとして書き残しておこう。
書き始めから書き終わりまでの一本の道筋をタテイトと呼ぼう。しかし、その大半はクズの場合が多く、何となれば行き先も考えず書き殴ったからだからなのだ。。。アイデアとしてのタテイト――スケッチは、それ自体に情報的価値はないにせよ、書くこと自体には意義があると考えている。パレートの法則よろしく、全体のおよそ8割方が無益で、2割ばかりが有益であるようなものを作り出すことができるからでもあるし、そもそも書き殴らなければ2割分の有価値すら見出すことはなかっただろうと。まずはタテイトを、乱立してもよいから作り出していくこと。
そして、発想を自由につなぎ、つむいでいく道筋をヨコイトと呼ぼう。2割の有益に思われたものをつなぎとめる。タテイトに散らばり、残された節々の閃きが、書きとめることによって自らに、より鮮明になる。そして、これまでの狭い視野では思いもよらないような世界観の提示に挑むこともできよう。
すると、タテイトはヨコイトの構成要因としての位置付きを獲得し、ヨコイトの背景ともなる。ヨコイトは木の幹となり、タテイトが枝葉となる。ヨコイトは形になったが故に優越性を獲得する。しかし、本来はタテイトの乱立によってこそヨコイトが生まれたことを思い出しておく必要がある。乱立するタテイトからは、実はさらに多くの異なったヨコイトを織り抜くこともできるだろう。これまで目もくれなかった無価値が有価値の色彩を帯び、呼びかける。私の何かを呼び出す。そうやって、潤沢にヨコイトは織り抜けることだろう。
だが、ヨコイトも無限には作れまい。たかが人間の脳みそでは、限度がある。どうしてもタテイトの補給は必要になる。数々の乱立を行わねばならない。ここでも注意しておきたいことがある。何でもかんでも好き勝手に書いてよいわけではないということだ。自分の好きなテーマのみ、縛りのない書き方を許してしまえば、そのほうが隘路にはまるだろう。価値観などたかが知れているからだ。人の悪口を言って、かえって自分の浅はかさを思い知る体験を、あなたたちはしたことがあるだろうか?無理にでも、他からの刺激を求め、発想を、言葉をひり出す努力をしなければならない。思弁的でも、妄想的でも、何であろうと構わない。書き続けること。そして、腹をくくった時に結実する。