――――――――(以下9時頃の雑文)――――――――
・山脈の絵を描くことを想像してみよう。どこから描き始めるか。山の周りから描く人もいよう。中腹から、山頂から、尾根から、空から。それぞれである。大方の素描を自らが抱いていれば、どこからでも構わないだろう。最後につながる。均整はあとで取ればよい。


・差異によって人は語ることができる。初語が植物のように育ち、成人の言葉になったとは考えられまい。都度の違和に出会うことで言語は形成されるのだろう。しかし、その差異は対立図式で語られるものばかりではない。二項対立を離れ、それぞれが非対称かつ比較考量できないものも捉えるべきか。


・何を守ろうとしているのか。何を“冷凍保存”しようというのか。そもそも「何を」と問うた時点で、語る主体はそこに対象となるべきものがあると前提しているのだが、同時に切望しているともいえる。形を持ったものとして、不定形な事況を説明してしまいたい、と。「何を?」と問うことの見返りは、けっして満足を与えるものではない。
内省の方法を考察した部分でも示されているだろうが、具体的な方法がなければ、その説明の仕方は一つにとどまることができない。多言を費やしても迂回を重ねるばかりだろう。「何を」ではなく、「どのように」と問いかけねばならないのかもしれない。存在論の語法から離れた仕方、「存在するとは別の仕方で」と内田樹は繰り返し引用したが、しかし水準の違いをどう説明するのか。
思いもよらないところから答え、閃きが到来することはまれに日常生活で体験される。それは、自分が前提としていた現時点での舞台ではない、別の次元からの到来である。ものの見方を変える、多角的な視点を持つ、という言い方でもほのめかされていると言えるだろう。しかし、別の水準・次元へ移行することにばかり焦点が向かい、移行の仕方――現時点の舞台(価値観)と別の次元・水準の間隙を埋めるもの――はあまり関心が払われていないのではないか。これは抽象的な物言いであるがゆえに、現代の理論的な書物よりも、むしろ宗教書に示唆を求めたほうがよいとさえ感じられる。
思い出されるキーワードのみ、今後の参考資料として残す。木村敏の“あいだ”――『自己・あいだ・時間』『あいだ』『人と人とのあいだの病理』など。


――――――――(以下18時頃の雑文)――――――――
・身につけること。理解の方法。習慣として身に付けたことを起点として、具体的な事柄をそれぞれ自らに近付けてゆく。想像できないことが覚えられないように、あるいは抽象的なことが分かりにくいように。情報が自らの範疇に沿うものでなければ、その分だけ理解は妨げられる。


・特定の方法を知ったときに他の場面でも適用させようとする傾向もある。いままでは当該の方法で行っていなかったにもかかわらず、それが昔から自分の行動要件であったかのように。より妥当な価値観・方法論を柔軟に取り入れるという意味では問題なかろうが、「節操のなさ」「恥知らず」というのだろうか。それを食いとどめるに適するのが「倫理感覚」とはあまりにお粗末すぎないか。自らを正当化することの拒否ともいえる。社会への反抗的態度ともいえる。


・方法を固定してしまうことのデメリット。「つば付けときゃ治る」「気ふさいだときには酒呑んで」「女にはこれが一番」云々。具体的対応の円滑さを促進するのであれば方法を一通りにしてしまってもよいだろうが、ことは一対一で全て解決するわけでもない。様々な要因を考慮に入れた対応を行う必要がいやおうなく出来する。さらに問題なのは、方法を固定することが、自分を「閉じる」ことの表れでもあるということだ。周りから侵されざる自己を作るために方法を一つにする、異論を挟ませない態度。既存の方法論では解決不能な状況に遭遇したときの危険性を謳うまでもなく、これは弱さの現れながら対人関係において顕著に自らの優位性を保つための「強さ」の誇示、弱さの否認である。