一人称と三人称

三人称で書くこと、一人称で書くこと。形式のみならず質の上でも決定的な異なりがあるだろう。
一人称は、私的なものを掘り下げるために好都合な手段である。ある種突き放したように人を観察するものとは異なって、どのような論理矛盾を持とうとも、語る者が私であるという点では一貫しているため、いわゆる混沌さえも容易に織り込んでしまえる。しかし内外からの批判に弱く、自家撞着、自家中毒に陥りやすい。もちろん不慣れだというわけではなく、語る者が一人であるため、視点を変えることが困難なのである。
三人称は、個人的には「突き放す」という言い方が馴染む。描くものと距離をとり、俯瞰的・観察的・客観的などの形容に表されるような描写を可能とする。それゆえに多角的な視点から人々や物事を捉えることに長けており、多量の情報を揃えることができるし、人物自身から離れて価値判断を行うこともできよう。しかし一方でこの描写は観察的な情報にとどまり、内面への言及は基本的にできなくなる。もっとも実際には「神の視点」に始まり、ドキュメンタリー風の文章もしばしば心理描写を三人称に織り込んでいるのではあるが、“極めて個人的な体験”という形容しがたい体験・感覚を描き込むには困難を伴うのではなかろうか。
視点の操作・組み合わせに関しては、多くの方法が試みられている。事例的に取り上げ、検討を行っていく必要がある。