わたしが当のあの場で黙りこくっていた理由を、わたしは今答えることが出来ない。まわりの人々は口やかましく何事かを話し続けていていた。人間観察に関すること、新しい環境に関すること、自分たちと他の集団との比較、冗談めいた口調での陰口、それらは口にする必要のないものばかりだった。わたしといえば、様々に口に上される事柄のいくつかは、私に同意を求めるものであったり、私自身への質問であったため、出来るだけ簡単に、二言三言位で済ませていた。もちろんその話題に応じた表情を交えながら。
ここでの時間は、先日まで身を置いていた場所と比べ、異なった意味で非常に苦痛をおぼえるだろうと予感していた。極めてたいくつなのだ。情報が少なく、挙げられる話題といえば繰り返しと迂遠な表現。どうしようもないほどの弛められた筋肉を持てあまし、この場にほとんど身動きもせず居続けるのはあまりにも苦痛である。もはや苦痛とは、直接に感じ取られる肉体的なそれではなく、精神的に追い詰められてゆくその状態を指し示すのではないだろうか、と思うようになった。断続的に異なる刺激を得ることができれば、生命は律動を獲得することができるだろう。死んでいるにせよ、生きているにせよ、動かされることで"動くもの"としての様相をもつことができる。しかし、変わらぬ環境ではいかなる仕儀となるかは、もはや想像に難くない。電極を当てられたカエルの下膊のようにひくひくと蠢くこともなく、生は生としての要件を得ることもなく、肉体を腐らせてゆく。
生きたい、と思っているわけではないのだ。生きていることを大前提としているわけでもない。
一つの考え方として、例えばリーマン予想という"未解決の問題"(の証明)に関わる弱いゴールドバッハ予想のように、問題の答えを直感したとしても、それを明確に解決したと言えなければ、その問いを収めることはできない。それにも関らず「答えは出ている」と言って憚らない者の存在を想像してみてほしい。全く異なる分野からアプローチを試みたとしても、それが当該分野での問題解決に寄与しうる情報を与えられないかぎり、「答えが出た」などとは到底言えない。まして「答えが出ている」などという、宇宙論的な巨視を用いて何かを語ろうとしたところで、それを語るものが如何に盲目的、あるいは情報弱者であるかを物語るに過ぎないだろう・・・

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「歴史にも可壊性がある」 cf.『フラジャイル』(松岡正剛