「問い」とは。

時間とは、他者とは。これに応えるのがレヴィナスであった。私には未だ、他者はともかく時間への関心が不明瞭である。そこに切迫性を見出してもいない。しかし、恐らく別様で凡庸な仕方で、時間を捉えているのだろうとは考える。「もう時間がないんだ。ここで立ち止まってしまったら、おそらくこれからもずっと同じ場所でたたずむことになる。だから、『今でなくてもいい』なんて言葉は自分に当てはめられない」とのように、私は先日こぼした。それは通俗的な意味で、切迫しているわけだが…。

適当に話をつなげていこう。
「悩みを悩む」というやり方で、自らの存立基盤を揺るがし、崩すような症状の現れ方がある。いたずらに抽象的な思考で「自分とは何か」を掘り崩してしまうわけだ。ただ、そのような考え方が直接に発症要因となるわけではないだろう。それは単なる引き金でしかない。ただ、場合によっては強力な撃鉄ともなる。
ためしに「私とは何か」などと千遍ほど問うてみよう。そこには、答えなどありはしない。問えば問うほど、自らの足元は危うくなってくる。そもそも、問い続けるということ自体が決定的な答えを与えようとしていないのだから、あらかじめ準備されているはずの、自分のための答え(「私は、私だ」「私は、私でいいんだ」というようなもの)さえも放棄してしまうことになる。
もちろん、戻ってくるのは自由だ。馬鹿馬鹿しくなったら止めればいい。怖くなったら、落ち着くべき場所に落ち着けばいい。それが普通だし、問い続けることなど通常はあまりやろうともしないだろう。用意されていたはずの安住の場所さえも放棄するなど、よほどの意志か、よほどの馬鹿か、あるいは、よほど駆り立てるものがなければやりはしない。だいいち、益がないのだ。見た目には、実利はみこめない。そんなものに誰が有り金全部ぶち込もうとする?行く先に待っているのは、破産しかない。

初めから負けを見込んで、賭け金を突っ込み続ける。それは賢いやり方ではない。少しでも娑婆気があれば、危なさを感じたときに手を引っ込めるものだ。おそらく。手を突っ込むつもりならば、多分死ぬ気でやらなければならない。
後に引くことも出来ない。深入りすればするほど、身を引いたところで傷口は深くなっていることだろう。
問いとは、初めから答えなど用意されてはいないものだろう。未知のフィールドに対して、既知を得ようとすること。そのためのエンジンをかけること。自らを開くこと。これが問いそのものではないか。もちろん、勝手に本義をつくっているのではあるのだけど、ここでいう「問い」はすでに「悩み」と同義になっている。
無論、目的的に問えば答えは用意されようとするだろう。しかし、その目的さえも、いわば思考の基盤さえも保証しないで「問う」ことを始めれば、問いは自らの形を深く深くえぐりこんでゆくことになるだろう。
この問いを、私は自らの機関に嵌め込もうとしている。「悩みを悩」まずにはいられないように作りこもうとしている。では、何を見返りに求めるのか。それは一言でいうのももったいないほどの、潤沢なものなのだろう。
曰く、叡智。曰く、絶望。曰く、この世からの逃亡。