「理解」への努力

たとえば、難解とも平易とも見える文章を理解できたといえるのかは分からない。言葉は言葉として何かを示しているのだろうけれど、おそらく何も示してはいない。そこでかろうじて意図を汲み取る努力で流れに食いついていこうとするのだけど、そこでもまた、対話者間でもミスリードが交わされていることが多いのだし、語り手本人が自分で何を言っているのかさえも良く分かっていないことだってある。このまま続けよう。言葉が言葉として、自らが何かを書こう/伝えようとするとき、当然のように架空の読み手を意識するようになっている。コミュニケーションツールには多くの場合、論理をつかうこともあるし、あるいはコロケーションを気にすることもある。現に先の文では、「コミュニケーションツールは」と書いた後で「に」を挿んだのだが、それは恐らく伝わりやすい・意味が通りやすいと思ったからであるし、ここで「である。」と止めなかったのは自分の独断で浅薄な知識をひけらかしてあとで誰にも読まれていないはずの文章を読み返しててはちまちまと修正するのを避けようとしてあえて自己陶酔を突き通すか、読み手を煙に巻くかを意図したといえる、もうやめよう。どうも自己陶酔よりも自己嫌悪の傾向が強くて困る。だいいち、私は、私は、と自らの存在を相手へ押し付けるだけの言葉など、犬にも食わせられない。そういった自己の臭みは、それに気づくほどに言葉を使おうとする意志を奪ってゆくのだ。ここでニーチェの戦争実施要項なるものを引き合いに出したいとも思う。もっとも浅学ながら最近知った文章であって…と繰り返すのもやめにしよう。ここには2つの問題がある。少なくとも、とも言うまい。括弧書きしないことで自己開示を行ったつもりになっている問題、手近な自分の恥を適当にあげつらって、他人をも自分をもごまかし侮ろうとしている問題。そして、その先には恐らく人が既に考えているだろうという軽薄な慎み深さから「少なくとも」などといって身を隠そうとしている問題。そしてなによりも、ここで適当に言葉が、たとえば「問題」という語を筆頭として、伝えられるだけの組み合わせを発揮していないし、組み合わせる能力もないことを明かしている(ここで証しているとか証示していると使ったってだめだ)。それはすでに、問題どころか罪ではないのか、とさえ言いたくなる。言葉を使うことそのものが自らを慰撫する体のいいオカズにされている、それは問題どころか罪ではないのか。二度使ったってだめだ。ベケットの文章を真似てみたってだめだ。そもそも意図していることを知られるのも我慢ならないし、意図している問題提起が簡単に解けてしまうのも許しがたい。意図ハ深遠タラネバナラナイ、と言うのではないけれど、いや、それは切り口から誤魔化している。平易な文章であっても難解な文章はあるし、…こうやって言いたかったことを少しずつ忘れ、問題としていたことからも離れていく。いい。もう離れてゆこう。何かを洞察することさえも難しい。洞察する意味さえあるのか疑わしい。溺れてゆきたいのではあるが、しかしそういうことでもない。自らが何かに取り付かれたかのように文章を書き、読み、そして人に読ませられないような文章を、まさに排泄物のように溜め込んでゆくのも許しがたいが、やめられない。自分が我を失っているのも許せない。馬鹿を晒しているのも同様だ。無知を晒すのも、無知を見抜かれるのも・・・・・・、同じことだ。こうやって言葉を切り詰め、口を閉ざそうとする。それと同時に、益体もない言葉がまともな形もとれずに流れ出し、欲望を垂れ流しては形を取ろうとして溶け出し、冷えて固まり、吹き晒されてはその失われてゆくさまをみて何かを思い出し、書き付け、そうやって、こうやって、そもそも、私は、だいいち、うがつこともできず、くずおれてゆく。