「ムカデ人間」差詰感想

ムカデ人間』をやっと見てきた。かいつまもう。ストーリーは想像できるので割愛。
何が見たいかって、そりゃつながるところさ。日本人ヤクザを演じる北村昭博を先頭に2人のアメリカ人女性。


「日本の火事場の馬鹿力ってのを○☆△¥!!」 気合いが入っている。それに怯まず念願のムカデ人間作製に胸ワクの外科医ディーター先生。まずもって行うのは、泣き叫ぶ女の子と怒鳴り散らす日本人の前で講釈垂れること。「この変態ドイツ野郎」 と罵っていた彼も次第にあせる。「おいお前ほんまにそんなことが許される思っとんのか」 すでにガクブル状態。


彼らを繋げるまでの前半部分の緊張感は半端ではなかった。『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスのような狂気むき出しではなく、あくまでプロの外科医として冷静さを保とうと、ゆったりとしかし確実に仕留めようとするディーターの振る舞いにまずビビる。観客は、彼が何をしようとしているか分かっているからこそ、「何が起きるんだ」という恐れおののきとは、また違う緊張感が走る。もうやめてあげて!!という思いになる。


監督自身が述べるように、「心理的にも肉体的にも長く強く続く苦痛」 がここでは強調されている。キウィホラーのような血ドバドバでもなく、スプラッタホラーのような飛び散る肉片祭りでもない。見ていて、こう、何か追い詰められるのだ。人間ではない形にされた三人の旅行者たち。ディーター博士はムカデ人間となった彼らには、創造者としての恍惚と、調教者としての慈愛を込めて眼差しを向ける。さあ歩いてみろ。犬のように新聞を取ってこい。糞を思いっきり垂れて2番目に喰わせるのだ。後ろの女の子たちの口元の縫い目とうめき声、声にもならぬ悲鳴がキツイ。


また、観ていて途中でハタと気付いたことがある。ムカデ人間(たち)とディーター博士の関係、そしてムカデ人間にされた3人の心情と関係だ。前者は、前の段で書いたことともつながるのだけど、もともと心を通わすつもりのないディーター博士がムカデ人間たちをどう扱うのか。彼の大事な「作品」?たしかにそうだろう。一番衝撃的だったのは、庭で歩かせるのでもなく、日本人ヤクザを蹴り飛ばすところでもない。プール室から出ていった直後、彼らを調教用ムチでぶちのめすシーンだったのだ。姿は見えず、ただムチ打つ音と悲鳴が聞こえる。ここに絶句してしまうほどショックを受けてしまった…今でもなぜか分からない。
後者のムカデ人間同士のつながりについて。後ろの2人は、何度となく手を取り合う。ヤクザは、「あっ…うん、うんこ……ごめん、ごめん」と2人に言い糞を垂れ、最後には脱出のために協同を呼び掛ける。これを、まさか“心と心のつながり”などとは言うまい。ここで思い出したのは、以前アフタヌーン都留泰作が連載していたマンガ「ナチュン」だった。複数のブタを飢餓状態に追い込み、精神的に高次なものを作ろうとするマッドサイエンティストが後半で描かれる。彼はブタの精神状態を指して「精神重合体」を作る、と言った。極限状態に陥った者たちは、これまでにない精神的なあり方をみせてくれるのでは…と心ならずも期待していた。が、しかし残念なことにそれぞれのナニカが交わることは無かった。残念。尊厳的なナニカでまとめられてしまった。


本作は、かなりの手加減をしているという。そりゃ、欲を言えば縫い目はちゃんと見せてほしかったし、糞食のようすを執拗に描写してほしかった。それでも、何か生理的な嫌悪を催さずにはおれなかったのだけど。もっとこちらの心が折れ、胃袋の中身をもっていってしまうような表現は観たかったが、これが何と<第一シークエンス>、トリロジーの序章であることを思えば、次回作に望みを掛けて何年も待つしかないではないか。もっと心が折れるような作品が観たい!!と。


ともあれ、このどうにもならない、「すでに」逃げることのできない状況、今まで体験したことのない凌辱と苦痛。もう死ぬのかもしれない。生きていられないのかもしれない。人間として、あってはならない姿になってしまった私。絶望的であるとはこういうことだ、と。これこそが、今回の作品の見どころだったのではないだろうか。