身体感覚から

気付いたら、自分の口の周りがにちゃにちゃしていて、なぜかやたらに不快で、自分がいったい何をしているのか、というかここはどこでいつなのかさえも分からなくなる一瞬があった。それは発見的な出来事だった。
いままでもやもやとした感覚の中に、たとえばぬるま湯の中に浸かっていたことに気づいてしまったような違和感がある。ここで真っ直ぐ先100メートルの道路を見据えているその集中力も変わらずある。このあと体験する息の詰まるような9時間も予期している。それなのに、自分が何をしているのか分からなかったのだ。これ以上、どこへ行こうとしているのか。何があるというのか。何もないのかもしれないし、何事かがおきるのかもしれない。
夢から覚まされてよかったのだろうか。誰がこの夢を覚ましたのか。それは夢だったのだろうか。夢とはなんなのか。私は何に取りすがっているのだろうか。何がやってくると私は驚くのだろうか。驚く、とはいったいどのような体験なのか。この思考は何かによって保証されうるものなのか。分からないことがあまりに多すぎる。多すぎ、というのに、それがどれほどの規模と数をもってあるのか、どこにあるのか、どうやったらそれぞれを掴むことができるのか、分からない。目が回りそうになる。
ときどき、思う。ここでしゃがんだ一瞬に私は昏倒していたのかもしれない。誰かの呪詛に満ちた視線に射すくめられて動けなくなっていたのかもしれない。ここでは何も起きていなかったのかもしれない。その一瞬が起きていなかっただけでなく、この場面、私が勝手にこの世界を体験していると思っていただけなのかもしれない。
これまで体験してきたことは、全て、カチカンという訳の分からない固定したものにさせず、私を丸裸に、あるいは何を身に纏っているのかも分からぬまま服を着ているような状態から抜け出させるためのものだった。何事か、気付かぬようなものを野放しにしていてはいけない。価値観など、いらない、と。
大事にすべきもの……よく分からない。絶対に何何できない……よく分からない。おしゃれな喫茶店でお茶したい、だから私には仕事が必要だ……NANAか。ふざけないでいただきたい。それは。何も分かっていないのと同じだ。反論すること、発見すること、体験すること、議論すること、すべて不毛だ。守ることも。同時に攻めることも。



抽象的なことを、こうやって、毎回毎回書いて、いったい何だと言うのか。だからといって、生産的な、あるいは論理的な、あるいは分かりやすいことをものすれば、それでいいのか。いいはずなどあるまい。何度でも言おう。分かっていることなど、何も無い。