禁煙中止以後

http://d.hatena.ne.jp/obsessivision/20100531
痛み、から思いいたること。あいかわらず、朝の頭痛を愛している。それがなければ不安にさえなる。
朝のタバコで若干体調を損ねて。それから、その気分の悪さを元手にいろいろなことを考える、というのが毎日の習慣めいている。タバコを吸わない日もある。しかし、そういった日はすこぶる快調で、結局後ろ向きの考え方、内省的な思考へ向きにくいことが多い。
痛みは、望まれないものである。だからこそ、必要なのだ。痛みから、思考の過去と未来と、そして現在に思いをはせる、という言い方が少しは分かりやすいだろうか……じつはちっとも分かりやすくない。言い換えれば、座標軸を特定する、あるいは自分のコンディションを試験薬で特定するといったものだろう。
もちろん、タバコや頭痛などなくとも、いかなるコンディションを体験・検討できるのがベストではある。その上で、それらの体験を利用できるようになるのが好ましい。だけど、そういう訳にもいかない。とりあえず、思考的には身軽であること、これと同時に、肉体的には「一病息災」であること。これらは実は相性がいいようだ。*1
どのような障りも、試薬として用いることができるようにすること。

*1:逆説的に、「健全な肉体には健全な精神が宿る」という断言めいた俗語を思い出そう。「宿れかし」ではなく、断言するのだけれど、ここあたりの経緯・変遷をみても脳みそ筋肉野郎が明晰であるとは、とてもではないが肯定できるまい。病んでいる、というのでなく、狭すぎるのだ。健康な人間こそ呪うべき存在、などと誰かが嘯いていた気がするが、それは言い過ぎだとして。実際、「健康」などというのも実は“ない”ものなんじゃないか。