魂の重さ?

書きだすと思いだすことが多い。
論文で魂の重さが分かると言った方がいた。もしかしたら、本当にそうかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。ここが重要だ。撹乱のために反証してみせているのではない。そうではないかもしれない、そのことを十分に考えてほしい。
確かに、自らの感覚だけを頼りに、全てを見通す!という意気込みは何となく伝わる。しかし、それは人に言うものではないし、他の者がまねようとしてできるものでもない。それに個人的には、そんなものは意味として通用しえない、と思っている。
どういうことか。例えを挙げよう。「君のことが嫌いだ」「なぜそんなことを言うの?」「なんとなく。生理的に嫌だ。ありえない。存在自体が不快だ。君は存在すべきではない」最後の応え方が、つまり上記の言葉のニュアンスに近いと思う。「なんとなく」という極めて恣意的な感想が、まるで神の命令のようになっていく。それは発言者にとっては自己肥大でしかない。言われたほうはたまったもんじゃない。


自恃――自らを恃みにするという言葉がある。おそらくは百練自得のあとに来る言葉だ。自負とも言う。自分の培ってきた経験をもとに、勘がものを言うという類だろうか。しかし、それでも人に言うものではない。誰がそれを共有できると言うのか。言葉は、他者に向けるものであるということを思い出せば、その言葉があまりに乱暴であることは想像に難くない。そして、魂などというものを、どれだけの人が理解に到っていると思っているのか。「魂」などという不明そのものの言葉は、使っているだけで人を気持ちよくさせるような毒薬にだってなりうるのだ。そんな言葉、理解するのに50年使っても足りないくらいだよ。500年の間違いか。
「もしかしたらそうではない可能性もある」という余地を人に与えず、思考停止に陥らせるような強さがある。もちろん、そこから這い上がってこそ一人前だ、とでも反論できるのかも知れないが、そういう問題ではない。それは単なる自己正当化という愚劣の極みだ。これは、言われる側ではなく、言う側の問題である。
魂とはなにか、なんて、この時点では考えなくたっていい。そんなもの、自分のケツの穴――内面の見たくもないようなところ――を四六時中眺めていたら、ほのかに見えてくるかどうか、それくらいのものだ。*1ここでまず考えるべきことがあるとするのならば、その人が自分に何を言っているのか、くらいを考える程度でいいのだ。たぶん、その作業だけでも長い長い時間がかかることだろう。

*1:そういった意味で、河合隼雄の「たましい」という言葉の使用にも、胡散臭さを感じる。理解できもしないようなものを、分かるように言ってはいかんと思う。