愛着、と呼ばれるもの

たとえば誰かを愛するとか、何かにすがりつくとか、よすがとするとか、たのみにするとか、そういった行為がごく自然に行われ、抗いがたいものであるからなのか、私たちはこれらの行為を時には「愛」と呼んで正当化し、称揚する。何がそれを定めたわけでもないのに。自らを正当化するために。自らの居場所を作るために。
たしかに、そうしなければ生きていくことさえも在り得ないという激しい苦痛を持つ人もいるのだろう。心に欠落や傷を負い、どうしようもない苦しみは、人を絶望的にさせ、何かに向かって駆り立てるのだろう。しかし、それだからと言って、これらの行為をどうして正当に評価することができるというのか。よしんば正当に評価などする気がなくとも、あまたの表現方法によって「愛」と呼ばれる行為は人間の美徳のように、背理的、逆説的な方法をとってでも描かれる。
私は、とくに自らに、こう言わなければならない。
「何も残らないようにしなさい。一切をなげうちなさい投げ捨てなさい」と。
命じられたこの行為を美徳や義務だと呼ぶことも許してはならない。それは宗教者の誤魔化しであり、欺瞞にすぎない。