雑記

ちようど一年前に書き散らしたもの。メール送信済みに入れて忘れていた。

2011/2/11

試着、到着、死着
スーパーパイズリ
困ったことに、当の問題や問題群の解決は一向に解決される気配を見せない。これは、当事者や関係者が解決の糸口を見出していないことが大きな原因だと考えられる。もう一度、方策を練り直す必要があるのだが、より重要なのは現実性を十分に加味したうえでの対策でないといけないということなのだ。何かに向かって物事が動き出す場合、そこには現実的な状況に干渉・介入しうるだけの影響力があるということができる。影響力とは現在だけでなく、将来的なものをも指す。現実的な問題とは、そのように考え直されるべきなのである。さてこの問題および問題群は、一向に解決される気配を見せない。現実的な影響力の弱さと述べたが、それは相対的なことでもある。

2011/2/11

さらに、考えなければならないことのひとつ。ゆるし。私が他者に罪を犯したとき、それはゆるしを得ることができるのか。私はここで、現実にもとづいて語ろうとは思わない。そもそも私は罪せる存在である。私が私であること、それは完全性などではなく、永遠に不完全な――完全という概念もまたイデア的なものである。まずは仮想としてこれを斥ける――ものとして存在することである。これを前提として進めよう。私が私であること、それはいたみそのものである。過失、欠落、失敗、それらを示すものである。存在が「ある」こと、「なす」こと、これらは全て変化という点で、ゆがみとして解釈しよう。罪もまた、同様のことである。ただ、それがより顕在化しただけのことである。私は、他者に負いを持つ。そもそも犯すべからざる一般的な「人」、他者を干渉してしまったことは、ただでさえ不安定な状態をより不安定な方向に導いたようなものである。それゆえ、あるべきではない状態をもたらしたこと、それは「罪」であり、基本的に私はそれ以上の何かをしてもならないし、それ以前に何かをしてもならなかったのだ。ここでは、まだ「なす」罪を論じてはいない、ということを忘れてはならない。なぜなら、これまで論じた罪とは、基本的に原罪を指すものとしかいえないからである。「罪を犯す」とはどういうことか。「罪」とは生み出されるものなのか。これは問いそのものにかかわることである。敢えて「罪を犯す」を自明とすることも必要だが、しかし私自身にとって「罪」とは生み出されるものではなく、本来的に人が、私が持っているものなのだ。人に関われば恐ろしく、苦しく、違和感に満ちる。ここで息をしていることさえも苦しく感じられる。相対的な問題である。そもそも持っていた苦しみ、違和感に対する感受性が、他者という「私とは異なるもの」に出会うことで、私は他者ではない、ほかでもない私であることを強く意識する。他の存在とは、私ではないものである。他者が訪れるとき、安定していたと思われた状態は一気に動揺する。意識が澄明であればあるほど、それは鋭く感じられる。しかし、私は他者を、敵、と感じることはないのだろうか。確かに、敵、といえばそうなる。しかし、私がそれに対して攻撃的になることはあまり考えられない。他者は私を侵し、私は他者を侵す。これが強く認識されていればいるほど、私は私であることさえも忌避したくなるのである。私にとって、忌避すべきは今生きている此処、現在である。しかし、生きている限り、忌避し果てて自由となることはありえない。あらゆるものが私を侵すからである。それでは死ねばよいのか。もちろんそれも答えである。それも、究極的な。しかし生にある限り死を一時的に選ぶことはできない。結局、いかに在るべきか、というここに行き着くしかないようである。だが、私はいかにも在りたくないのだ。ただただ、見通しの悪い今を、より見通しよくすることに身を砕き続けるだけである。あきらめ、

2011/2/19

主体たることを避け続けること。他者に絶対性を担保させようとしないこと(ものされた『存在と時間』は他の書物を自らの注釈として位置付けてしまったという)。 たとえば「なる」という語(あるいはかつて習った‘be born’という語)のように、自らの行為は“自動詞”というより“受動態”として理解されることを欠きやすいように思われる。あたかも恒星を周回する衛星のように、決定的なもの・結論・中核を限りなく回避し、しかし何かによって為されている(これに加え、「何かを為している」)という自覚を同時に持ち続けることが欠けていってしまう。これまでに嫌になるほど、しかし取り憑かれたように同様のことを何度も書いてきた。しかし、そろそろ私もこの独り言に決着を付けるときが訪れたのかもしれない。ただ感情にまかせ、「おごるな」「信じるな」と叫んだところで何になろうか。ここに居るだけで、私は、いや、私たちは数々の複雑な物事を同時に体験しているのだ。それだけで十分ではないか。そう言いたいのだが、私たちは全てがこの自覚的であり続けようとする道に気づき続けていられるとは限らない。私自身もまた何も分からないのに、言葉をすべて捨てて現実に臨むことなどできようはずがない。恐ろしいのだ。そしていつまでも後ろ髪を引かれるように何事にも未練を残し続けるこの私が、そうであることを無下に切り捨ててしまうのも、自らの無理解の露呈であるようにも思われる。同時にこの「切らない」「煮え切らない」「未練がましい」という、すべてを陸続きの混沌としてしまうかのような曖昧な態度を私が持つのならば、いっそ徹底的に体験してしまうほうが、私の抱える問題を少しでも解決へと導く糸口となってくれるかもしれない。おそらく、“責任”という言葉すら、私には私の言葉でしか理解できないのだ。だから、まず私にできるのは、自らの性分と自らが抱える問題と理論的課題を、一連の数珠のようなものとして捉えることであり、核心への直截な接近ではなく、周縁からの限りなく間接的な彫琢によって把握しようとすることこそが私にとって肝要なのだろう。
話を戻そう。他者に委ねながらもそれを自ら理解する、これは大変に困難ではないだろうか。これは、「私」と「他者」という複数の軸を持つということでもある。複数の軸に依るなんて、可能なのだろうか。一つでも困難だろう。なんとなれば中心の問題には付随する事象が少なからず・必ず現前し、それを解決するためにも時間を費やさねばならない。その間にも中核的問題は形を変え、傷が入り、風化し、場所を変え、問題に内在する核の所在さえも変わってしまい、一次方程式の解へと導くような容易さからはみるみるかけ離れてゆく。そんなものが複数あることで現れるだろう状況は想像に難くない。加算どころか乗算の勢いで複雑さは増してゆくことだろう。芥川龍之介の『薮の中』、あるいは黒沢明の『羅生門』はこのことを示すものとしても一見の必要がある。ただ、ここでは全く相容れない、勢力も対等な「かしら」、あるいは権力を有する複数の対象の対立を話題にしているのとは少し違う。

・たった一人を御しきれないこと



2011/2/22

「自我肥大」――自らの存立要件と可動範囲が自らの肉体を超え出た範囲にあり、自らの肉体と精神同様に操作可能と感じていること。何にでも「あり」うる、何でもできる、どこまでも行けると感じている。しかし、必ずしも“我尊し”と思っているわけではないようだ。全能感ではなく遍在感というべきか。自我肥大の一例か、自己が自我に侵食しているのか。そういえば、最近私にとって意識と無意識の境目が薄れてきているような感覚を抱いたことがある。自分の境目がなくなるような、と言ったほうがようだろうか。私ならぬ場所からイメージ・言葉が流入してくるような感覚。しかしこれを恐ろしいと感じているわけではない。私は自分がどのようにあり、何をしているかも分かるし、現実的に何をすべきかも分かっているつもりだ。そう、夢を見ているかのように冷静なのだ。たとえば『アブラクサスの祭』で浄念の言う「ライブ前はシンクロするくらいじゃないとだめなんだ」という言葉。あるいは大日如来真言を持ちながらもあらゆる世界の言葉であらゆる者に言葉を伝えるということ。あるいは般若心経の「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という文言。これらのように、私が此処ではない外なる場にあり、私ならぬ姿形や言葉を持ちながら、同時に私であるということ。分割というより分有、翻訳というより吹入、変化・変換というより同時の存在。あるいはキリスト教における放下、へりくだりの概念。ここでは自我肥大というよりも、自らが自らでない場所に滲出していくようなものであり、原型をとどめようとしていないようにも思われるが、今の私の感覚はむしろこれにちかいようにも思われる。

2011/3/19

一つ一つを決めていく。積み重ねが我々を登らせるようにも思えるのだが、しかし実際はよりさらに、迷妄へと自身を追い込むことにしかなり得ないのである。何かに価値があると思いこむその週間は、静かに我々を侵食していく。言葉にならないことが我々を夢幻の闇へと誘い込み、