発達障害的素因とは

考えていたことがあるんですよね。最近言われてかなりのインパクトというかショックな一言が「発達障害的素因がある」なんですけど、じゃあ自分が今まで見て来た世界、捉えてきた方法って他の人とは違うものだったのかっていう、なんていうか世界が自分を取り残して、本当は別のものだったことを知ったようなショックなんです。それに発達障害ってなんなのって話なんですけど、もう一度定義を読み返してみたい思いにかられるんですけどね、それよりも前に、その他大勢の人との違いって一体どこにあるのかっていう、そこが一番気になってるみたいなんです。たとえば想像力の欠如とか、計画性のなさとか、他者理解のぎこちなさとか、そういうことなんですかね。それって少しずつは当てはまるような気がしますが、他の人が笑っているところで笑わないのだって、慣れない環境でパニック様になるのだって、妙に几帳面なところが出てきたり、臨機応変さを求められる場面でびっくりするくらいのトロさ、固さを発揮するのだって分かってはいるんですよね。周りの世界と折り合う柔軟さに欠けるってまとめていいかもしれないけど、それって、実際のところ4割から5割くらいの部分では意識してやってたりもしています。
どうなんでしょう。この疑問は、本当に自分が発達障害的な素因を持っているのか?(「そんなんじゃない」って言いたい)というのと、持っているのならどういうふうに対応していけばいいか?(「なんとかしたい」と思ってる)というのと、大きく分けて2つに分けられるみたいです。
変人と呼ばれるのはかなり自覚的だったにせよ、そういう振る舞いをしていたから変人と呼ばれるようになったのか、言動の不自然さを指摘されることに耐えきれなくなって変人と括られるような振る舞いを意識して行うようになったのか。たぶん、どちらもあるのだと思います。色々なことが重なり合って、今の状況があるというわけなんですけど。
本当に、これはうまく説明できないんですよね。
対人関係というのは自分にとって最も難しいことです。それは確かです。まず、人と慣れ合うことへの恐れ、というのがあります。経験的に、人と近くなったり、近くなったと勝手に思うことは、落とし穴に気付かず嵌まってしまうことになると感じています。だから、人の振る舞いをまず前提にして自分の行動を決めているところがあります。でも、その一連の対応が実は枝葉末節だったり、他の場面で応用されていないこともままあるわけです。他にも、慣れない場面でパニック様になるのは、それが最も自分に緊張感をもって体験されるから、と分かっててやってるところでもあります。有り得ないくらいに悲観的になってたりするのも、同じ考えのもとでやっていたりします。とはいえ、対人関係に対する不安を前提に行動していますし、その不安が行動に現れたと言ったほうがしっくりきますよね。まあ後付けなのかもしれないです。
「分かっているはずのこと」「想像できるはずのこと」をやって見せたり、理解してみたりするのは、苦手なことでもあります。でも、どちらのやり方もアクロバティックで、基本的なこと、なんでそうなっているのか、っていう根本的なことを放置しているような気がしてならないんです。それを放っておいて、柔軟に、自信持ってやっているって、根本的に怖いことだと思っています。だから私はこういう感じなんですよー、って言っても、まー何の解決策にも近づいていませんよね。「どのように苦手なのか」、これはかなり真剣に考えないといけません。
とりあえず、まだこれ以上のことは考えていないんですけど。先につなげられるように、前に挙げた疑問をもう一度挙げておきます。
本当に自分が発達障害的な素因を持っているのか?(「そんなんじゃない」って言いたい)
持っているのならどういうふうに対応していけばいいか?(「なんとかしたい」と思ってる)
最近、こんな本も出ています。こちらも参照したいところです。『話の聴き方からみた軽度発達障害』 (こころの未来選書、畑中千紘)