原作厨やタルムードについて

古拙な文章を生き生きとしたものにするために、タルムードの方法があると内田樹は論じる。
そのままでは冷え固まった古臭いもの。それこそ、原理主義者の好むところなのかもしれない。金科玉条のようにオリジナルを尊ぶその態度、実は様々な場所で見られる現象ではある。
たとえば原作厨、彼らは小説やマンガが映像化されるように、原作が別のメディアによって作りかえられることを好まない。原作の世界観を全く崩すことなく移植することが大前提だと考えている。もちろん、人によって差があることだろうし、その分だけ人は寛容で、無邪気で、鑑識眼に劣っているとも言うのかもしれない。それは今回置いといて、原作厨が尊ぶ原作の世界観の完全移植とは、実は不可能なものだと言うしかないし、彼らはそれを分かっているからこそ自分たちの聖域を侵されたくないと思っているのかもしれない。とすると、彼らが大事にしているのは、その作品自体ではなく、その作品を愛している自分の感動や自分自身なのだということにもなってくる。いくら小説家が映画化された作品を絶賛しようとも、原作厨らの気に入ることがなければその作品は失敗作である。当然、絶賛した小説家は鑑識眼の低さをなじられる。「しょせん小説家。映画のことが分かってない」「あの作品を分かっているのは自分たちだけだ」云々。彼らは自分のことしか愛していないことにすら気付けていないのだ。
宗教における原理主義者もまた、準拠していると思っている教典の内容とは、独自の解釈に基づくものだということに気付いていないことが多い。彼らは原理主義者である。このことが多くのことを物語っているだろう。原理しか尊ばないということは、すなわち眼の前にある教典しか認めないということである。そして、実は自分の理解しか認めないということでもある。自分以外のものは認めないという態度は余りに幼く、自らを権威に位置づけようとする、いわゆる自己愛の一形態とも言えるだろう。他者の存在を認めないということ、それは寛容とは程遠い。


ここでまた、最初の一文を掘り返すことにしよう。
内田樹は、タルムードが永続的な継続議論を旨とし、最終的解決に到るのを避け続けていると指摘した。これこそが議論を生き生きとしたものにする。仮に最終的解決に到ることがあれば、神の姿は有限であることを証明したことにもなってしまう。この方法は否定神学とも似て、ゴールがない。また、タルムードにおいては歴史上常に、議論の相手は2人だったという。孤独な独学者は自らの考えに撞着してしまい、行き着く先はやはり自分の世界でしかない。常に自分とは別の者との対話により賦活されることが、ここでは最も重要だと目されたという。


このくだりを今になって思い出したのは、先日の話し合いがきっかけであった。ユングの『赤の書』、読んでも読んでも分からん、時々自分の中に書かれている内容が流入してきそうにもなるけど、少し考えれば意味不明な部分が非常に多く、字義一つ確定させるのさえも難しい。先日はユングの語りにまるで「世界が私であり、私が世界となる」というような雰囲気のことが書かれているのがどーーしても納得できず、「それってどうなんだ」みたいなことをつい言ったのだが、それから話はやたら盛り上がることになった。そこで師が言うには、「これこそユングが求めていたことではないか。それぞれが各々の考えで読み、意見を交わすことが。金科玉条のように彼の文章を崇め奉っていたって何の発展にもなりはしない」と。
ここで自分にもよく響くものがあったのだ――自分の聞こえるものしか、実は耳に入らないものなのだが――このようなことが、タルムードで重んじられていた議論の作法の意義だったのか、と。金科玉条のようにオリジナルを重んじて疑うことなければ、理解に到るには程遠い。
これはまた、書かれたものは、作る者や読む者にとってどのようなものだと捉えられているのか、を考えることにもなるだろう。書かれたものとは何なのか。言葉とは?