震えるほどに

また、体が震える程の嫌悪感。向く先は私自身で、そして私の目に映る人の姿。なぜ、こうも私は潤滑な応対を行うことができないのか。要求を突きつける相手は、私が全て当人の納得のゆく形で対応してくれると思っている。それが務めというものなのだろう。私自身も十分に気を払っていかないといけないのは分かっている。しかし、相手の会話は、その感情の強い波によって理解力さえもが揺らぎ、縷々・逐次質問を矢継ぎ早に繰り返す。説明したであろうことが伝わっていない。私の至らなさもあるだろう。より端的に、ちょうどよいスピードと声音に調節しながら話す。また、相手の提示する情報をもとに要求を汲みとるところを、不十分な言葉や覚束ない用語によって提示されれば、再度聞き直すことになってしまう。すると相手は怒りだす。自分は専門用語など分からないから、こう言ったのをお宅はやっているのかと聞きたいのだ。もしなかったらここに赴く意味がない、と。もちろん私がその場で時間を取って他の者に確認すればよかったのだが。どうもこの話の噛み合わなさは、相手の理解の揺らぎや、私の小慣れなさが絡み合っているようではある。こちらは少しずつの調整を経て相手との疎通可能性を図っていく「べき」なのだろう。これは、相手の過失をあげつらって主張してよいものではないのだ。
上記の煮え切らない物言い、やはり私自身が相手に対して承服しがたい思いがあってのことなのだろう。このガキ、自分の要求ばかりしやがって、こっちが言ってることを理解しようともしないじゃないか。自分の都合のよいように理解すれば、それが全てか。これだから……いや、対人関係において疎通可能性を構築することの困難な者は、まず相手に理解してもらうことが難しいのだろう。そこをクリアすることに腐心しがちなのだ。「自分の言うことを分かって」という思いは、「私の言うことをなぜ聞かないのか」という、相手をなじるような物言いに変化してしまう。それも背景の一つとなっているのであれば、こちらはその部分も十分に汲まねばならぬ。――とは言っても、腹に苦々しいものが溜まるのは変わらんのだ。対話することをまず念頭に置かず、「自分は自分だ」「生きることこそ大事だ」「自分は自分のしたいことをするのが一番だ」という通り一遍のセリフをまるで正義印のようにして闊歩している奴の気が知れない。何も考えることなく、自分の幸せのみ追いかけて、そのサルのような面でこの地をのうのうと歩いているのか?腹が立つのではない。何とも言えない、人に対する嫌悪感が私の体内を毒血のようにめぐりわたり、そして私は身を震わせる。