世界理解と、思考すること

行き交う人々。私とは別の形で、存在している人。その数々。『娚の一生』で海江田は言う。

あるとき学校近くの画廊で先生の染色の作品展がありました/…ぼくは哲学をやりはじめのころで/人間のことや世の中のことは頭で考えたらなんでもわかると思うてました/自分はものすご頭ええと言われてたし自分でもそう思てたし/世界はすべてぼくの頭の中にあるのやとさえ思うてました/…先生の/“虹”という作品がありました//一枚一枚違う色に染めた布を無数につなぎ合わせた/たくさんの“虹”が/まるい部屋のようになっていたのです/ぼくは言葉を失いました/なぜか/“世界”が一瞬にして理解できた気がしました/考えてもいないのに/なぜぼくは今理解したんやろう/それは人生が変わる体験でした
(『娚の一生』1巻、P179-180)

彼が思っていた「なんでもわかる」ということと、それから、後に開かれたのであろう「一瞬にして理解できた」ということは異なっている。そのように読むことができる。
もし一人の人間が「なんでもわかる」と思ったところで、それは自分自身の視界から見える世界に限った理解であり、彼の全ての理解を保証する者は誰もいない。それを示すように、彼は人の作品を見て、新たに「“世界”が一瞬にして理解できた」と感じる。赤の他人の作品を見て、だ。
もうここでも十分に示されている。全知に到る方法など有り得ない、ということが。自分の知っている世界が、別の視点の流入によって更新されただけのことだ。天才だから/天才ではないから、という線引きで全知が保証されるわけでもないし、詰まる所は赤の他人との出会いによってしか生は構成されえない。全ての人々の知を掻き集めたところで、それが完全なものになるわけでもない。もしかすると人間以外の知性が、人間とはまるで異なった知性をもっていることを否定することはできないからだ。“存在しない”と思われているものの実在を否定することはできようがない。人間は全能では有り得ない。
それでもなお、この世界・現在に数多くの人々が相も変わらずいる。永遠のような途方もなさに目がくらむ思いがする。なぜここにいる?なぜ考えねばならない?その「必然性」とやらを、説明することもできよう。しかしそれは、たとえば芸人がなぜ芸人になろうと思ったのか――テレビを見る人口も減っているというのに――を説明するようなもので、どうしようもない個人的な思いにしか根拠はない。「○○は世界を救う」と言ったところで保証するものはないし、保証するもののないことを根拠に挙げても仕方のないことだ。正当化できないこと。見ようによれば、無意味とも言える。「おまえのやっていることは何の意味もない」と言われて、自らの作業を続けられるほど強靭な精神を持つ者はあまりいない。よく言う話で、バケツの水をもう一つのバケツに移し替え、その水をもう一度そのバケツに移し替える、延々と繰り返す作業に人は耐えきれなくなる、というのがある。同じことをするからではない。そこにそれ以上の意味を見いだせないからだろう。意識ある限り、私たちはささいなことにでさえ自らの根拠を寄せて生きているようだ。自らが依り縋っているものを奪わることに、人はひどく抵抗することだろう。昨日の与太話でも、のうのうとこの地を闊歩している者の気がしれないと書いていた。彼らでさえ、ささいなことに依り縋っているのだろう。彼らにとってその根拠とは、存在意義や、尊厳ともなる。
この根拠のなさに耐えねばならない、と聞いたことがある。どこまで行こうとも、根拠や意味を見出すことはできない。他者との出会いによって新たな世界が開けるという、それは確かに心地よい響きである。新たな発見、新世界。ただ、これは桃源郷、世界平和の道という一義への道ではなく、限りない多様への道である。数学的な、あるいは脳生理学的な観点からこれを有限であると看破するのは自由だ。しかし、一個人の体験にとって有限であることをどうやって見極められようか?茫漠とした場所に立ち尽くすように、行く先さえも分からない、と言ったほうが、より自らに忠実なのではないか?
「それでもうちらは生きていかなあかんのやから。屁理屈言うとる暇あったら体動かせ。仕事せえ」
そうも言われるのを承知で、まだ私は考え続けよう。これを病、「怠け病」と言っても、差し支えなかろう。益体もないことを考え続けることが人間の屑の証拠だと言われようとも、止める気はない。無意味であることに白旗を挙げて、「あきらめ」て自分の都合のいいように意味づけてしまってもよかろう。意味などないのを分かって、日々の糧を稼ぐことに勤しむのが一番かもしれない。もう、そんなふうに何度言われてきたことか。彼らの方が、よほど生きることに真面目なのかもしれない。生きることに疑問をもって、なんになるんか。生者の務めは生きることや。生きてこそや。死んでは何にもならん。生きて生きて生きるんや。そんなこと言うて、お前は先の震災に遭うた人たちに申し訳ないと思わんのか。とも叱責されるだろう。あるいは、わしは宗教なんど信じとらん。けど、この世に生を授かったっちゅうことは、なんか意味があるんや。あとんなってからしかわからんかも知らんが、そのためにはまず生きることから始めなあかん。それともこう言われるのだろう。あなたは1人じゃない。生きていることが一番大事。あなたが死んだら、いったいどれだけの人が悲しむと思うの。どんなことを考えたって、生きていくのよ。それとも、すでにあなたには生活がある。あなたはそれを守っていく義務がある。云々。
ここに在る、ということには何の根拠もない。虚無主義相対主義は、たどり着く先のないことに絶望して終わった。どのように足掻こうとも変わらぬことに崩れ落ちた。彼らもまた、自らの思いにとらわれてしまったのだと言うほかない。しばしば彼らの導き手は、神や家族の「愛」でもあった。否定的な見解ですら容易に覆されてしまうのだ。肯定的な見方も否定的な見解も、論駁されうるし、寄る辺を持たない。どこにも行き着く先がないと知りながら、どのようにすればよいのか。おそらく答えがあるとすれば、極私的な場所にしかなく、そして「私」という根拠さえも実定不可能であるが故に、他者も同様に、漂って在るということだけが答えの代わりとなるだろう。いっそ全てがなくなってしまえばいいのに、とも思う。思考があるために私は思考することに囚われ、そして私の思考は、行き場もなく漂っている。