想起

印象に残ったものは、ことさら言葉にせずとも覚えている、と思っている。しかし、それは甘い。出来事は繰り返し思いだされ、そのたびに折々の「私」によって形を変えて捉えられる。思い出される、想起することとは、切り取られる部分によって異なり、思い出す私の感情によって異なり、聞き手がいれば語る内容によって異なる。私が私を捉える仕方も日々によって異なり、それを一定不変のものだとまさか思うはずもないだろう、が、この「私」に自同律があてはまると思った時点から、自らの不見識は認知されなくなる。「私」は「私」だ。その来し方も行く末も問わずに自らをそう呼べば、思い出す私もまた過去の私と変わりないと信じてしまう。しかも、その気分を振り返ることも先に思った自同律を問い返すこともなく、「あれはああいう意味だったんだ」「今となってはこう思う」「昔は私も若かった」と、そう口にする。もはや自らの考え方など、どうでもいいのだ。その時に気持ちのよい風に、都合のいいように理解しておけば、それで十分なのだろう。
書きとめること、それは自らを証明するためではなく、まずはその時々の姿を模写するためなのではないか。
ノートをとることでさえ、「きっちりと」書かれたその内容がいかに不正確なものであるか。板書もされないようなものを捉えるに、まず興味のないことをも捉えるようにすること。ポリフォニックな様態を保とうとすること。
そんなことを結論にしようとしたのだったか?