朝、瞑想の失敗

朝。いつもより1時間早い5時に起き、シャワーも浴びず6時に外へ出た。
連休のため、この日は知人の手伝いをすることになっていた。朝、この朝、たった1時間違い、予定が違うだけでこれほどまでに心身の状態は異なるのだった。
***
通常の日々では、制約された行動をとることにしている。目を瞑ったまま、シャワーを浴び、コーヒーを淹れ、用便を済ませ、着替えて出かける。それだけで1時間以上はかける。実際に何をしているのかといえば、繰り返して言うように、努めて何もしないのである。具体的に何を?と聞かれても分からないほど、ずっと突っ立っている。何となれば、今朝に見た夢を何とかひり出そうとしているのであり、用便を毎日確実に行うよう精神的に仕向けているのである。より詳細に言えば、自分の意識だにしないところから思わぬ想念が到来してくるような体験を、息を詰めてじっと突っ立っているということになる。
しかし、それはそれは丹念に集中せんといかんのである。やらなければいけないこともあるが、そんなことは夢うつつでもできる話である。習慣的にやっていることだし、朝からそんな意識的な作業にかかずらって要らぬ緊張を身体にかけたくない。次にやることでさえも、正味「考える」必要はない。指の先に訪れる感触が全てを物語っている、もとい“物語ろうとする”。それを直感的に読みとる――つまり身体的反応からほぼ不随意に起きる想念を、意識的な解釈を介入させないよう、注意しながら受け取る――わけである。
便意でさえも、「せんといかん、私はしたいと感じているはずだ、私はしたいんだ…」などと思ってはならない。集中するのは確かに下腹あたりである。だが、断じて具体的な部位ではないと言っておきたい。大腸や肛門などではなく、あくまで「下っ腹あたり」なのだ。そのような兆候を読みとるようなオープンな状態にしておき、自分にとって最も都合のよいコンディションに持ちこむという心算である。(よく聞く話、本屋に行くと必ずトイレに行きたくなるとか、レンタルビデオ店で必ずそうなる、という人がいる)
***
しかし、この朝はどうにもならなかった。しなければいけないことが意識にせり出し、あげく目を開けていつものことを確認する始末である(上記の内容を読んでいなければ、何をいっているのかさっぱりだろう)。
おそらく、それはいつもの日常とは違うということからの緊張感からくるのかもしれない。ケツの穴の小さいことである。
まったく意識というのは、似て非なる理解や紛い物ばかりを私に見せてくる。この「私」という小賢しい頭が要らぬことを、しかも理解した振りをして見せつけてくる。こんなものに座を譲ってはならん。現実生活に支障をきたすとか、そんなしょうもない批判を待つまでもなく、自分の意識、“正気”“理性”とやらはそもそも信用などできるものではないのだ。


いやしかし、この朝、1時間早く起きたために、顧みることなくすでに意識的ではない場所で――つまり夢うつつで――行動していたと考えることもできるではないか…
***
朝の出来事、ほんとうに取り立てて何もございませんでした。長々と、いったい何を書いていたのかと聞かれれば、朝って眠いですよね、とそういうことに相成ります。どうかご放念くださいませ。