ジンクスと依存

依存すること。
これは長々と考えてきた一つの主題だった。迷信、伝統、習慣。ジンクス、占い、呪い、これらに深くかかわる人が、現代にも後を絶たず増えているのは、その道に通じたいという理由からではない。“拠り所”が欲しいのだ。
小学生から中学生のころ、ジンクスは特に流行した。私も多分に漏れず意識していた一人だった。周りの同級生たちと比べて、たとえばミサンガを付けることもなかったし、実際には関係なく過ごしていたと見えていたのだろう。しかし、ジンクスというその響きは、当時から既に、自分にわざわざ“縛り”を設けるような真似としか感じられなかった。
その4,5年前の小学生のころ、儀式的行為を繰り返して行っていたことと重ねて考えていた。たとえば右ひざを叩けば左ひざ、次は左から右。右左左右、左右右左、左右右左、右左左右。対称性を崩してはならないという強迫的な思いが、儀式的行為を止まなくさせていた。その強迫に気付いた頃、今度は別の繰り返しによって対称性を崩そうとした。右左右左。しかしどうしても対称性を作り出そうとしてしまう。左右左右、左右左右、右左右左。
繰り返しに追われることは、ジンクスにも同じ印象を抱かせた。まるで、自分の行動を不当に縛りつけて身動きできなくさせるようなものだった。そのようなもので自分の行動や生活、果ては生き方までも規定されることに恐ろしさを感じていた。


依存とは、ジンクスに頼るようなものだとも思っている。そこで自分というものを保たせているもの。外から取って付けた、単なるモノなのに、それに自分自身の形の維持を頼っている。何々依存症とあるが、彼らは何かに依存しないとやっていけなくなってしまっているのだろう。
先に挙げた、迷信や伝統、習慣によって実人生の維持や充実を図っているのも、おそらく広い視点では、依存と同じである。自らの形を保つため、何でもいいから頼っているのだ。
“何でもいいわけじゃない、それが本当に必要だから/人間にとって常識だから、私はこれこれに生きているんだ!!”と反論も上がるだろうか。笑わせないでいただきたい。誰が、それを保証するのか?本当の必要、常識とやらは、誰が判定するものなのか?


私はこの鈍足のおかげで、事あるごとに立ち止まっては、自らが頼みにしているものを一つずつ剥ぎ取っている。
根拠がなくとも人は生きていけるのだけど、根拠を知らなくては/知る態度をなくしては、自らを正当化してもならない。もちろん、正当化そのものが、物事を知ろうとする態度と正反対のものなのだけれども。
何ものにも依存してはならない。何も蓄積されないし、そもそも失われる本質などもない。始まってもいなければ、終わってもいない。