結節点

現象学などについて。数年前、こう言われた。

現象学現象学って、君はその先に一般性を見出そうとしてないか?いいかい、現象学っていうのはぼくの少ない知識から言っても事例性、個別性を求め、対象そのものをありのままに記述する『現象学的記述』を行うのであって…」
http://d.hatena.ne.jp/obsessivision/20090522

彼は、「まさに臨床心理学こそ現象学的記述を行っているじゃないか」と続けて言ったのだったか。
百歩譲ってそうだと認めよう。“事象そのものへ”と向かった記述を行っているのだろう、と。だが本当に、この分野に携わる者が皆それを分かっているのか?ある学生が私見を述べる際、こう言ったのを覚えている。「これは私の妄想なんですけど」と。
確かに、自らが感じ取ったもののほうが、既知の価値体系において手垢を付けられることなく、理解できるのかもしれない。ただしこの理解が十分に称揚されるのは、たとえば「私がこの人を治す」というような思い上がりを持って面接に臨んでいるような者がいなければ、という前提があってのことだろう。
自らが相手の前に立つ、ということはどういうことか。相手を相手そのものとして、自らの価値観との差異を認識しながら理解する、とはどういうことか。そんなんできるわけないだろうが。メシアコンプレックスというのか、救済願望や「自分を救う」などという極個人的な場所から「私は」抜け出せている、と下手に思い込んでいるがために、まったくその場所から抜け出せていない者がどれだけいることか。*1あるいは、自分の価値観を一旦措いて他者理解に臨もうとしている者がどれほどいるというのか?そうでなくても、これまで約100年余の間に数知れず出た理論さえも、研究者の個人的な体験や価値観がもとになっているとしか言いようがないではないか。
現象学をあらためて云々するのは、さほどまずいことでもないだろう。自らが現象学的な記述――客観的記述とほぼ混同されて――を行っている、と思い込んでいるよりはよほどましである。自分がここにいる、ということも良く分からないのに、偉そうな口をたたけるはずもない。
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ああ、「一般性」ということについても私は分かっていないのだ。まだ十分に答えることさえできない。

*1:こう言えば、「では他の人たちのやっている方法だって主観だらけじゃないか。その人たちのやり方が間違っているのか!?」と激する人も出るのだろうか。左記、まるで保身でしかない発言だが、個人的には、間違っているも何も、あなたはそれが正しいと信じているのか、そっちのほうがよほど問題ではないか、と聞きたい。