「われわれ」

われわれ――ここで「われわれ」とは、党派的な視点ではなく、共同体という巨視的に見える自我肥大的な観点でもなく、“わたし”と不特定多数の“あなた”と、不特定多数の人々を指す。何らかのカテゴライズという手法を前提として語ることを欺瞞だとは言うまい。それもまた恣意に基づくからだ。いかにして存在があるか、ということさえも明確にできないような、ここにあることさえも不確かな者にとって、あえてデカルトの言葉「われ思惟す、ゆえに我あり」を参照して、何かをモグモグ言おうとしている“わたし”からの視点を提示すると、とりあえず「われわれ」としか名づけようのないこの「われわれ」のことを今指している。またこれも極めて恣意的だ。想像してみたのだ。この“わたし”と同様に、益体もないことを思い描くものが幾人もいるということを――は、等価ではない。