本屋とたわけ

我が身を癒す、慰める・・・というのもいやらしく、あさましい響きをもつ言葉の一つだが、しかしそう言っている自分が身を癒すためにどこかへと逃げ込んでいるのだ。あきれてしまう。本屋は私にとってそういう場所だ。  禁煙に名乗りを上げたのも束の間、数週間で挫折してしまった。そして今になって禁煙を辞める、ということが喫煙を続けていた時分の心持ちよりも「たわけ」になっていると感じた。ある種の“制約”として考えていたのに、禁煙を辞めている、というだけの状態を惰性で続けている、と思ったのだ。  今日は辛かった。自らが一貫しないという苦しさ、息を詰めなければより早くも動けなかった。こめかみは脈打ち、鈍い頭痛が時折走る。  『あなたにも攻撃性がある』と昨晩言われたときから、考えていた。もしこれが契機となって外へと攻撃性を向けるとき、私は一つ「たわけた」のだと思うだろう。人を責めること、それに何の得があるだろうか。自らを押し拡げようともせずに我がことを人に託すなど、怠慢でなくて何だと言うのか。そもそも人に攻撃的になるのは、自らを守るためであり、そしてそれが許されるとどこかで思っているからだろう。あなたは時折癇癪を起し、すぐに収まる。私は「火あぶりにするように」、徹底的に粘着質に相手を焼き尽くす。竹刀を持ち出される矢先に、大ぶりの日本刀か青竜刀を持ち出し、相手の頸動脈に刃を当ててずぶずぶと圧し切っていくような真似をする。  いずれ近いうちに「その時」が近づくのかもしれない。あなたがくるうのか、わたしがくるうのか、あるいは離ればなれとなるのか。申し訳なく思う。私は私であることさえもまともに相手することができないでいる。  風が吹く、風が吹いた。本屋から出た時、静かに風が通りすぎた。そして、私はたったいま我が身を慰めるためにこの場所へ赴いたのだと知った。この空間を作りたいと思って、私の部屋を本で埋め尽くすことを思い立ったのだ。私の所有物ではない別の書物たちが、読むことも読まれぬことも強いずに揃っている。私は丁寧に手に取り、ページをめくる。ただ、手に取る本を物色するために、その本の空気を感じるためにページをめくる。やめてもよいし、やめなくともよい。明るく涼しい空間で、誰にも干渉されることなく見定めをかける。この自由に渉猟できる空間を作りたかったのだ。マンガのみ好んでいるのではない。本は、遠くから問いかける者たちの幻なのだ。私ではない者たちの声、虚像。骨肉相食むおぞましさのない、軽やかな足取り。  私には、「あなた」と「あなたではない人」しかいなかった。これまで、「あなたではない人」ばかりがいて、ときどき「あなた」になってくれる人を渇望する衝動にとらわれていた。かつて、よく思ったものだ。“私がもう一人いればそいつと付き合っていただろう”と。そんな奴はいない。わたし以外に、わたしなどいない。「あなた」とは結局“骨肉相食む”だけだ。そうやって、身内とも離れてきた。すべて、「あなたではない人」として相手にしてきた。そうしようとしてきた。  「あなたではない人」の中で、「わたし」は自分だけの世界を守り、決して立ち入らせようとしない。「あなた」が立ち現われたとき、「わたし」の姿は変わる。「あなた」とは「わたし」と関係を持ちうる人であり、同時に「わたし」そのものだ。実は「あなた」とは「あなた」ではなく、「わたし」にとっては「わたし」、その延長なのだ。人と関わること、これこそが世界だ、人生だと豪語する人もいるのかもしれない。自らの根幹を揺るがすような疑問さえも忘れ、疑問を持つことさえも忘れ、ただ自分の享楽を求めるようになった年嵩の行った人びとは、私を笑うかもしれない。青臭い、抜け切れていない、と。だが、はたしてこれに達観への道はあるのだろうか。以前知人が言ったように、私はいま無明のなかにいるとしても、手放しで、あるいは自らの足取りを信じて、歩いて行くことなど本当に可能なのだろうか?おそらく、いずれ私は独りになるだろう。あれほど自分だけの場所を作ろうと離れていったにも関わらず、私はまた打ち捨てられた廃棄物のように、何者でもなく、何者にもなれず、自らを毀ち続けていくだけの日々を送ることになるだろう。いまは束の間である。終わりがいずれやってくる。