まだまだ、ただただ

どんなに時間をかけたとしても、私は何事をもえぐり出すような鋭さを得ることはないだろうし、全てを見通すほどの炯々とした眼を持つことはないだろう。
これは私の性分でもある。何にもたどり着かない。何も見出すことが出来ない。それに対して文字通り四六時中とらわれて、悔しみを込めて口を噤み続けるのだ。“分からない”と。
まことに愚かな所業である。そして、何処を切っても同じことである。どのような文脈であろうと、「いまだ」であることをぼやき続けている。どこかに到達するところがあると思っている。しかし自分では到達できないと思っている。不貞腐れないようにはしているものの、周りのことも気にしながら、でもそっぽをむきながら、自分の足でしか歩こうとしない。あるいは、自分には羽根が生えていると思いこんで、屋根から人通りの多い道へと突っ込んで痛い目に遭い、しかもあろうことか恥ずかしがると同時に“してやったり”と内心ニヤリとするのだ。とんだクソ野郎だ。
とうてい、ぜんぜん、まだまだ、いまだ。そして、なおも、ひたすら、ただただ。これの繰り返しだ。自己矛盾に陥ってでも作り笑顔をしてブツクサ言っているのだ。何だこの野郎、バカ野郎、早く死ね、もう死にたい、まだ死ねない・・・・・・。
ずっとこれだ。飽きずによくやる。いや、飽きずにいるというのも、この行動原理のひとつだろう。