永く永く永い日

この、永く永く永い日。
先日冗談交じりに「あと60年生きるとして、そんなに退屈なことはない」と言ったのだった。いかにも厭世的で、この世を斜めに見透かしているような物言い。しかし、これからそれだけの時間が経つと考えると、気が遠くなる。たとえ宇宙の歴史の中で、数えようもないほどの短さで一瞬だけ、輝きにも値せぬような時間を費やすと考えたとしてもだ。
この世は私にとって永く永い。「今を生きればよい」という現世肯定的か、あるいは極限状態にあるような人々のことばにするまでもない思いに打ち据えられたところで、この状況が打開される訳でもない。この短い時間、あるいは永い時間、私は延々と自らの欲望と不安を引きずってゆくことになるのだろう。
残すこと。これが一つだ。血をもって子孫を残し、技術をもってモノを残し、知をもって言葉を残す。これらは已むことのない、最期にまでまとわり続ける渇望の一つ。この渇望を満足させる方法を考える前に、自問が先立つ。「そんなことをやってなんになる」。何もなりはしない。分かっているのになぜやろうとする。
人との関わり。これが一つ。さまざまな形で人間関係をとる人々は、その自らと分かち難い環境を自分の存立要件とみなす。いわくスキル、いわく愛。対人関係のむずかしさは、その多様さからも窺い知れる。ふつうの関係があるかのように、あるいは平均的な、常識的な関係があるかのように考えられるのは、確かに人間の精神構造がそう大して変わらないからでもあるのだが、ときに非常な困難さをともなうからでもある。平和を目指すがために常識は遵守される。しかしその平和は自らにとってのみ適用されると考える人もいる。自分さえよければ。この基準の違いが、建設と破壊の境目となる。大して変わらぬ精神構造を持つ者同士が、手を携えない、ということによって例外を生みだす。困難な例外は、しかし永い視点から見れば大したこともないのかもしれない。


私見もやめにしよう。たとえば、ホームレスになる約3条件として「物事をはじめない」「人とかかわらない」「衣食住をえらばない」と挙げてみたことや、アカポスに就いた方の発言が意外に偏狭であったことを思うと、可能性と不可能性が、やはり想像以上に広漠として横たわっていることを思い知らされるのだ。