論文

久しぶりに気鋭の(……そう私は思っているのだが)方の論文を読ませて頂いている。彼のケレン味あふれる語彙の選び方や、論理のつなぎ方は読む者をある種の感覚へ導く。これは違和感とも言う。ふだん使うことのない言い回しは、ある者には苛立ちや理解の拒絶を促すだろう。あるいは、彼が我々をどこかへ導いてくれる感覚を抱かせてくれるだろう。おそらく、著者自身もその意気込みで文章をつづっているのだろうと思う。
何を措いても、学術的な文章は分かりやすさを旨とする、と私は思っている。どのように卓抜な見識を持っていたとしても、読者を拒むような論理の運びを行ってはならないはずだ。それは孤高とも呼ばれるし、独善とも呼ばれる。あるいは非学術的とも称されることだろう。その点で、ある程度自明とされていることには目を瞑らねばならないことも承知して、文章を読み進めている。彼の、問題意識へ果敢に切り込んでいくような態度を思わせる筆致。これまでの先行研究や先賢の言葉を彼の問題意識の俎上に上げて、彼らが目指したもの、彼らのテーマや動機とも呼べるものをえぐりだしている。彼が多少なりとも精神分析に依っているのは聞いている。ジジェクを取り上げるのもまた、問題というよりも、問題そのものの平野を射程に精神分析的な方法で切り出そうとしているその証左と考えてよいだろう。『斜めから見る』だ。
この果敢さは「若書き」とも呼ばれるだろう。自らの問題意識を見失わず、問題の領野をはるかに、そして一挙に見渡そうとする態度は、まさにそのように思われる。そこに誤謬があったとしても、私は高く評価していたいと思っている。彼は今、そしてこれからも走っていこうとしているからだ。どのようであれ、公に書き続けることは重要だろう。
なんとなれば、翻って私の場合、何にも依らずに何事かを呟き続けているからである。これは、自家撞着・妄言に陥りやすい。ある人が以前、私に教えてくれたことがある。正式な学籍を持たず、図書館にこもっては毎日一本の論文を書いている野武士のような学生が多くいた、と。彼らは何者にもならず、消えていった、と。彼は続けて、観念的であるよりも実践的であれ、とも言ったような気がする。ここでは、私は自分を野武士のようにも感じる。第三者の視点をも持たず、ただ世に問われもせぬような言葉を自らの手でひたすら捏ね続ける、それが学問という場においてどれほどまともな評価を受けにくいものであるか。はたしてそれは自家撞着という陥穽に嵌ってしまうからではないか。野武士のような者らは、自らの言葉を、公の、批判の場に出すことをしない。そのために、書けば書くほど自らの妄想じみた観念は広がり、適正な準拠も失い、公への説得力を失い、誰にも顧みられず、そして消えてゆくのである。アルベルト・グリューンヴェーデルについて佐々木中は語っていたが、まさに彼のようになってしまいかねない*1。私は恐れている。これ以上言わざるべきか。口を噤み、朝縄と畳針で縫うべきか。

*1:Albert Grünwedel(1856-1935)のことだろう。彼は相当数の論文をものしているが、どこでそのような“狂気”へと陥ったのか。はたしてそれは本当に誤謬でしかなかったのか?