濁流と一滴

言葉とイメージ、これらを総動員して実際に使うことができるのはほんの少しに過ぎない。
いや、費用対効果の話ではない。それだけの労力を費やしてこそ、現実に効果が得られるのだと思う。営為に営為を重ねてこそ、形ともなろう。どれか一つの恣意的な選択に身をゆだねず、可能性を列挙し、その中で最も妥当なものを、最小限の形で選択する。これが現実レベルでのこと。


より大きな視点で見よう。多大な浪費のうえにこそ、一滴の、流体的なものが、つまり何かの示唆として、かろうじて現れる。冗談抜きで、妄想や思い込みも抜きにして、そうでしかない。しかも、莫大な浪費と一滴の示唆には、優劣関係は存在しない。たとえば前者が否定的で、後者が肯定的である、ということもない。その逆もない。突き詰めれば前者と後者の厳密な関係もない。因果関係であれ、である。何かに向かう、ということもない。何かから訪れる、ということもない。何も救われないし、何も堕とされない。できることは、ただ、続けること。時間感覚、身体感覚、精神的変化、これらのものも失い、ただ、続けること。存在者という言葉を使うならば、それは存在すること、生き続けることであろう。対義語として非存在者という言葉をあてがうならば、存在し続けないこと、だろうか――いや、違う。そもそも、存在という定義を措くことがおかしいのだ。『アブラクサスの祭』より引用するならば、ないがまま、ということだろうか。あってもなくてもいいのだけど、その状態が変化しようとも、それ以上でもそれ以下でもないことには変わらない。ただ、続けること、続くこと。とどまってはならない。動いてもならない。*1 *2

*1:宗教的な文献から――が最も突き詰め感があるので参考としやすい。まー般若心経でも読めば。花山勝友氏の訳による。『観音菩薩が、深遠な知恵を完成するための実践をされている時、人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、すべての苦しみを取り除かれたのである。そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ、形あるものは実体がないことと同じことであり、実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。残りの、心の四つの働きの場合もまったく同じことなのである。舎利子よ、この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、増えることもなく、減ることもないのである。したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、感覚も念想も意志も知識もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。さらに、悟りに対する無知もないし、無知がなくなることもない、ということからはじまって、ついには老と死もなく、老と死がなくなることもないことになる。苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。知ることもなければ、得ることもない。かくて、得ることもないのだから、悟りを求めている者は、知恵の完成に住する。かくて心には何のさまたげもなく、さまたげがないから恐れがなく、あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、永遠にしずかな境地に安住しているのである。過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものたち”は知恵を完成することによっているので、この上なき悟りを得るのである。したがって次のように知るがよい。知恵の完成こそが偉大な真言であり、悟りのための真言であり、この上なき真言であり、比較するものがない真言なのである。これこそが、あらゆる苦しみを除き、真実そのものであって虚妄ではないのである、と。そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。すなわち次のような真言である。往き往きて、彼岸に往き、完全に彼岸に到達した者こそ、悟りそのものである。めでたし。知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。』

*2:知り合いがいみじくも最近言っていた。なんとでもなるし、なんともならん、と。そうだろうな。なんともなるってことは、なんともならないこととほとんど同義だ。