書く、という核

物を書くこと。いったい、どうすればいいのだろうか。


先日、『切りとれ、あの祈る手を』という佐々木中パウル・ツェランの詩から引用したというタイトルの著書で、「なぜ、自分の作った作品を発表しなければいけないのか」と2人の学生から問われたことを最後の話題に挙げていた。


連れの言うことに、書くこと/描くことはそれ自体が本人にとってそうしたい、と思う以上に「そうせざるをえない」ものだと。――だとするとそれは、「したいこと」と「そうせざるをえないこと」とは一個なのかもしれない。“衝迫”という言葉がある。「自らをつきうごかしてやまないもの」という意味合いだろうか。そういったことになる。そして、その一個とも言える“衝迫”は、おそらくその人にとって軸や核と呼ばれるものだろう。これに連れは応える。軸や核は、誰しも持っているものだ。多かれ少なかれ。ただ、それは表現するかしないかという問題とは違う、と。――確かにそうだ。卑近な例では、修論を書き始めるその初めの時、私は恐ろしくてパニックに陥った。連れは、まだまだだね、と応え、怖さや恥ずかしさを超えて「そうせざるを得ない」、書かざるを/描かざるを得ないものが出てくる、とも言ったのだった。あなたはまだ、機が熟していないのだろう、とも。


私が恐れているのは、発表への抵抗もあろう。しかし同時に、この軸や核となるものが単なる一過性のもので終わり、日々口に糊していくことに追われ、自分の存在とやらをありあわせの意味付けで満足して、思考をやめてしまうことなのだ。衝迫に突き動かされるのがどんなに辛さ苦しさに満ちていようとも、私が愚鈍・無能でいることにも気付かず醜態をさらしているよりはよっぽどいい。『生きることに意味なんてない』。けだし名言だ。そう、意味なんてないのだ。それなのに、「人生とは〜」「生きるとは〜」「男とは〜」「社会人とは〜」「学生とは〜」何度も何度も、今日もどこかで誰かが同じことをうわごとのように、しかし偉そうに、自らをつなぎとめるように口にしている。たとえば目の前の人は「自分のものさしで考えるな」と言ったはずなのに、そのあとには「うまいものが云々」と言う。いいかげんにしてくれ。ほとんどの人間が、自分の言葉の意味を考えもせずに語ろうとする。あなたたちが言う社会的責任とは、つまりそういうごく日常的な会話にも適用されるものではないのか?治外法権、特別扱いで逃れられると思うな。腹もくくれずに言葉をしゃべるな。
…………いつも、こういう話になる。話題を戻そう。佐々木中氏は、「多くのことが、実に多くのことが、まだまだ可能なのです。三八〇万年の永遠が、われわれを待っているのですから」と締めくくったのだった。実に力づけられる言葉だ。発表とは、もしその入り口で立ち止まっているのならば、行うべきものなのだろう。やってみるしかないのだ。


ここまで来ると、こういった話題は別物かもしれないが。ずば抜けた天才はその傍らで何かを損なっていることもあるようだ。曰く半世紀以上前、文学部に虚弱ながら天才肌の研究者がいたという。日がな湯たんぽを抱えて歩いていたという。彼はあまりにも若くして亡くなった、と。また、伊藤計劃。彼もあまりの若さで亡くなったと。ミュージックシーンにおいても、セックス・ピストルズシド・ヴィシャスニルヴァーナカート・コバーン、ドアーズのジム・モリソンなどなど。若くして鬼籍に入った才人がどうしても注目を浴びるのでもあるだろう。夭逝の美学などと顚倒した考えが生まれるが、しかしそんなことを言うのではない。あるいはエランベルジェは『無意識の発見』で「創造の病」について言及している。そこまで向かわねば、創造的な作業は行えないと…。まあ、いい。徹底してやれるだけやるだけだ。
どうであれ、いま私が分からぬのは、佐々木氏の言う「読み読み直し書き書き直し」という、文章に基づく徹底的な態度=革命と、創造的行為とが持つ関わり。また、理論と実践の折衷案として提出されやすい宗教の別のありかたについて。そして(自らが)書く、考えることについて。