地震をめぐる非被災地の人々

地震、天災は人々の色々な反応を呼び起こすようだ。
私の周りでも、近くのスーパーでは水と食料は激減し、薬局ではオムツの在庫がなくなって入荷未定の張り紙がされていたとも聞く。
あるいは人の反応では、2つ。
数日後に東京へ行くと言う教授に「先生!やめてくださいよこんなときに」と声を上げる。私も驚いて顔を上げたのだが、教授は「ぼくの知人は今も東京や千葉に居る。だから行くんだ。それにどうにかなるときはどうにかなる。どこだって同じだろ」と平然と答えた。「ええ、そうですけども…」と彼は言葉をもごつかせ、2時間もたたず「何かあったらぼくは明日にでも九州にトンズラするつもりでいるんだ。昨日だってダメって言われていた買いだめをコンビニでやった。そうじゃないともしものときに大変じゃないか」と言う。
また、別の知人は部屋に入ってくるなり片手で頭を抱える。どうしたのか、と聞くと「あちゃー…地震だよ…」と応える。家族親戚がいるのか?「いない」救援活動をするのか?「いや、ぼくが行っても足手まといになるだけだ」なんで頭抱えてたの?「・・・」


何か違う。何か違うよね。いま自分がしている反応は、一体何なのか分かっているのか?それは思考や行動として一貫したものなのか?自分にできるかもしれないことがあるならやればいいし、逆に、自分がしがみついているものが信じるに値するものなのか、ちゃんと考える必要がある。
先の一人目の彼で言えば、なぜそんなに必死なのだろう。そんなに危機感を覚えるのなら、なぜ前もってやっておかなかったのか。いまさら備蓄だ?そんなの自分の不安を解消させているだけじゃないか。備蓄してるっていうより、それはリビドー的な意味で備蓄をしてないよな。オナニーだよ。それに九州にトンズラだぁ〜?地震列島日本にいる限り、どこでも地震は起きうるんだよ!いやなら海外にいけ!!
二人目で言えば、良心がうずくなら、何かやりにいけよ。色んな方法があるだろう。義援金、物資郵送、被災地支援、声やネットを通じたものもあろう。それを何もやってないのに、まるで世界を憂えるような顔して、だからなんだってんだよ。その良心の呵責みたいなのは、いったい何ですか?自分にふりまわされて、そんなに楽しいですか。悩んでいる自分ってそんなに愛しいですか。
むろん被災地ではない場所でも影響は起き始めている。そのなかで自らの周りのサポートに回らなければならない方もいる。やれること、やるべきことをやるのが先だろう。
しかし自分がいくら大切だからって買い占めにトンズラはねえよ。そのような方々にとって、たとえ地震雷火事親父、どんな天災が降りかかろうともそれは個人の物語としてしか理解されることはない。自分が、自分が、自分が、自分が……今日もほんっとうに一日おつかれさまです。