取り留めぬ4つ

問題無い、続けよう。ここで書きつづられることが取りとめのないもので、それが自分以外の誰かに向けられて放たれたものではないのにもかかわらず、私はここにまたも意味の貫かぬ言葉を延々と繰り返そう。ムカデ人間しかり、異性の友人に恋愛相談を持ちかけられた友人しかり、青山真治の『サッド・ヴァケイション』しかり、Eminemの‘Stan’しかり、先日から私の耳目に入るものたちが私の中であちこちを駆け巡っている。それぞれに共通したものがあるなどとは言わないが、ただ私にとって体験させられたものとして私の中におさまっているのか何なのか。さて、どこかしらで揺さぶられるのだ。一つずつ言及しよう。初めから順に(1)〜(4)と番号を振ることにする。
(1)については先日言及したのでひとまず保留しよう。
(2)、彼は最後にこう言った。「結局ぼくが彼女にできることはあるのかな…」。断言するくらいの確信をもって私は答えよう。何も、ない。人が人に対して決定的に何かを与えることは、無理だ。できるはずがないだろう。私はあなたではなく、あなたは彼女ではない。たとえ私があなたに何かを命じたとしても、それはあなたにとって私の命じたことそのままを遂行することになるのか?それと同様に彼女に何かしらアドバイスをしたとしても、結局決めるのは彼女自身であり、私「たち」ができることなんて、その周りで風を吹かすことぐらいのものだ。それを、多くの人は思い違う。私は何かができる、何かを分かっている、と。全くの迷妄である。この世に定かなものなど、「もの」さえもない。
(3)、青山真治が映画について多くのことを語る人であることは知っていたし、シネフィルと呼ばれていることも聞いていた。それだけでは、彼はただ御託を並べるゼロ世代の若手知識人と同様に、分かることばを話さない、という意味で敬遠しうる人物だと思っていた。
しかし、彼の作った『サッド・ヴァケイション』。観終わって、今まで映画を観ていたこと、言葉をしゃべっていた自分自身を深く恥ずかしく思わせるほどのショックを受けた。何も、言うことがない。一級品の演出と人物描写、一流の役者。しかるべきところでおよそ考えられうる最高の映像。“映画”というものを通して、物語以上の、人の塊ともいえる、一連の人々の姿をまざまざと見せつけられた。昭和の映画を思わせる若干速回しの映像と音響に始まり、次第に画面に映し出される風景・世界だけが、現代の映像に取り残されて、ひとり昭和を色濃く漂わせて進み始める。男同士なんて、いがみあい、脅し、警戒し、距離を取り、そうやって、どこまでも同じことを続けている。女同士となると、彼女たちはそれぞれが何のためらいもなく、まるで一体であるかのようにかかわりを持つ。男と女――息子と母、恋人たち、友人の妹、小さな会社の人間関係。これら、特に男女関係が、同性の関係よりも違和感大きく描かれている。これまで口にできなかったことが、石田えり演じる母親を中心に色鮮やかに浮かび上がる。「男は好きなことやってればいいのよ。こんなの、痛くも痒くもない」「私たちはねえ、今生きている人や死んだ人たちのことじゃなくて、これから生まれてくる人達のことを大切にすればいいのよ」というようなせりふだったか……目が覚めたままの悪夢のような、彼女はぬけぬけと、穏やかで崩れることのない笑顔でそう言い放つ。ああ。
(4)、Didoの‘Thankyou’に始まり、Eminemはこの曲を作る。あなたといっしょにいること、それだけを自分の「一つ」として生きていくような彼女の唄をバックに、StanことStanleyがEminemに熱烈な手紙を何通も送る。マジでシビレた、どうかおれに返事をくれ。返事は来ない。妊娠した妻よりもEminemのことを想ってやまず、ついに彼は妻をトランクに詰め、車で橋から落ちて死ぬ。最後に届いた音声にEminemは返事を書くが、遅い。
悲劇、とも言う。応えの届かぬ手紙、追い詰められた人生。俺が、俺がという歌よりも、何かを喪って苦しむ姿を敢えて歌う者の方が、いくらか救いようがある。