恍惚と背反

何かを捉えようとする我々の態度は、大きく二つに分けられる。意識において足跡を確かめながらの理性的把捉と根拠なしに存在的様相を一挙に捉える直観的把捉。両アプローチが葛藤し同時に生起するのは、我々が意識的状態で意識的に捉え得ないものに立ち会うその時である。理性的把捉という名の存在の捉え。それはあくまで側面的である。なぜなら、理性的把捉とは確かに確認できるものに忠実に立脚して確実な記述を求めるものだからだ。我が目に「見えざる」ものを言い表すことができないのだ。直観的把捉とは「見えない」ということが限界にならない。主観的にその存在的様相を獲得しようとするからである。いわゆる大発明が、天才たちの直感によって生み出されたという話はあまりにも有名である。世界の外に出ることが、新たなものを得る契機となる。世界の外は、既存の“秩序”を超える場にある。そのため、新たなものを新たなままに捉えるためには、古びた言語で鳥籠たる世界に新たなものを押し込めてはならない。まず、媒体、メディアとしての身体を通し、言語を介さず体験する。この新たなものの可能性の検証、しかる後に言葉によってつなぎとめるという作業が遂に始まる。直観は、すなわち論理的説明を越えたところにあるがため、人間は自身に備わった天賦の才、未知なるもの、あるいは未知なるものへの開かれとしてそれを受け止める。宗教的観点では、これを超越的存在からの賜物と受け取る。きわめて単純である。説明できないものは神に託すればよい。それは単なる放棄、神秘化である。それこそ人間に賜った能力を愚弄する行為である。神の御業だといえ、そこには仮借のない更なる探究が必要である。徹底的な試み、志向はより深みへと我々を導くが、しかしそれがより理解しえぬ“神秘”への入口だとするならば、我々はそこに踏み入れない理由はどこにもない。現れぬものは理解しようがない、と私は言うが、だからといって全く手を拱いていて良いとは決して言わない。この「光」という不思議な現われは、我々が諸物と向き合う時の在りようを端的に捉えている。理解と理解不可能の境目で、人はそれをいかに捉え、言述するのか。いかに我が内に収めるのか。