『斜めから見る』感想

ジジェクに関してよく聞くのが「(ラカンを扱っている割には)意外と分かりやすい」という言葉。本人が言ったかは定かでないが、具体的な事柄を挙げてラカンの理論を紐解いてみせるのだけど、実際のところラカンの理論の核心に迫ってはいないとか何とか。私はどこでこの著者の名を知ってきたのか、数年前から彼の著書を興味本位で齧ってみては諦めて、というのを繰り返してきた。だって分からないのだ。これはラカンを扱っているということばかりには起因しないだろう。自分ときたら当時は勉強もろくにしなかったのに本を読むことにかけては人並みのプライドを持っていて、本当にそれはプライドというか糞意地というやつだった。分らないものを読んでみては夢の中へ飛び立つことを何度繰り返したことか。
近頃手に取った著書は「斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ」というもの。第1章だけでもと読んでみると、これが意外と分かりやすかった。


対象aについて紹介すると、

<対象a>とは、ある意味で、欲望によって仮定された対象である。欲望はそれ自身の原因を遡及的にretroactively仮定する、というのが欲望のパラドックスである。つまり、<対象a>とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象であり、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。…(中略)… <対象a>は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。 (p34-35)

色眼鏡を着けて見えるもの。着けないと見えないもの。

ここでロバート・A・ハインラインSF小説『ジョナサン・ホーグの不愉快な職業』が紹介される。ガラス越しには世界は今まで通りはっきりと見えるのに、その窓を下げると形のない灰色の流動体がある。これを彼は「ラカンのいう<現実界>、おぞましいほどの生命力をもった前象徴的な実体の脈動」と言う。
そして、車の内部と外部での不均衡な感じに言及する(ここあたりは例がピンとこない)。とりあえず話に乗っていると、「カフカが描く一連の建物(カッコ内省略)の特徴は、外からはつつましい家に見えたものが、いったんわれわれが中に入ると驚異的な変貌を遂げ、階段と廊下の無限の迷路に姿を変えるところである(p41)」とも言い、この不均衡が「外部」に対する「内部」の剰余、さらにはこれを無意識の説明へとつなげていく(そしてこの例示・説明は、Mark Z.Danielewskiの「紙葉の家」を思い出させる)。


胡蝶の夢まわりの話は結構好きだ。フリッツ・ラングの『飾り窓の女』で男が犯した人殺しは夢だったというオチについて述べる。

この映画が言わんとしているのは、観客を慰めるような、「あれはただの夢だったのだ。私はみんなと同じように正常人であり、人殺しではない」といったことではなく、むしろ、無意識においては、つまり欲望の「現実界」においては、われわれはみんな人殺しなのだ、ということである。(p42)


これを読んでいて思い出したのだけど、普段暮らしで、自分が実は全く中身が変わっていないのではないか、と密かに恐れることがよくある。どんなに社会的な振る舞いを習得したところで一皮剥けばただのゴミに変わりはないし、その薄皮はふとした拍子に、いとも簡単にべロッとずり落ちてしまうのではないか、と。でもそうならないでいるということが大事なのであって、辛うじて一線を引けているのが私たちを正常に保っている証拠なのか。しかし不安定な身分が長い間続くと、自分があっという間に崩れ落ちてしまうような幻想をよく抱くことがある。むしろ崩れ落ちて、あとかたもなくなってしまいたいと。
このぼんやりとした不安があるからこそ、私は占いの言葉をよく気にするのだろうか。将来について当たっているかどうかなんて分かりはしないのだ。「当たらぬも八卦」というではないか。もし占いの結果が自分に都合が悪かったとして、仮に「実現しなかった」と気づくことがあれば、それはやはり“こじつけて”いるからなのだろう。更にいうと、当たっていると思っている占いが奥底に残り続け、当たるように自らその道へと向かっているのかもしれない。