激越、痕跡

*1光という体験に「激越」が同期する。それは現実での自然光ではなく、神経が極度の負荷を受けた状態で幻視する光である。それは全心身を突き抜けるほどのもの、身体を駆け巡るエネルギーの奔騰に身を引き裂かれる体験。“言語を絶する”体験がまさに形をなす。これを言葉にするにあたって主語の介在は不可能だろう。それはただ、「体験する」ということ。この言語表現さえも同時的ではなく、必ず事後的にしか言い表すことはできない。神秘的な様相が容易に現れる。狂気の入口、人間の領域を超えんばかりの体験。身体、精神、あらゆるものの容量を超え、己から迸り出るもの。主体が根底から失われる=奪われるのではないかという存在的危機。通過して初めて、それは<私>という媒介を通じて言葉にすることはできよう。しかしその体験は“体験そのもの”であり、体験を象るその言葉はどこまで行こうとも仮初めでしかない。あらゆる言葉によって捉え損なうという体験。すなわち、その体験が体験された者――いや、ここでは「者」という主体的な現れでもない。体験された者は「場」に限りなく近く、つまりそれが<私>に対して起きているということすら把握できないのだから――にとって唯一であるからだ。その体験に代替するものはなく、その体験は一回限りのもので通過される。通過した後でそれが起きていた、ということを辛うじて断片的に想起する。何が起きていたかも分からず、ただ、己を根底から焦がしつくした何かが“あった”のではないか、という不安とともに巡る悪夢。もちろんそれを客観的表現を持って何らかの姿を言い表すことはできよう。しかし、それは既知によって構成された道具であって、未知を本質的に看破することはできない。しかも、主観的表現によってさえ把握しえないというのは、それが外でもない己自身において体験されたものであるため客観的表現に若干の優越を持つとはいえ、体験自体が「私のものではない」という事実をけっして逃れることができないからである。言語とは「既知」の典型である。よって、その言語体系に支配されている我々が「我々」と言い表すところのものもまた、既知によって構成されている。おそらくそれはヌミノース体験にも近く、“超常的”“神秘的”などの言葉をもって白旗を上げるがごとき表現しかわれわれに充てることは出来ない。

*1:湯浅泰雄『聖なるものと<永遠回帰>』(ちくま学芸文庫)参照、もといインスパイア?