それは「象徴」ではない

象徴とは何か。「何かを代理する、代表するかのような内容の言葉、あるいは記号である。とくに精神分析では無意識との関係で理解されるもので、何らかの心的な内容、心的なエネルギーを代表、あるいは代理するもの、あるいは置き換えられたものを象徴と呼ぶ」*1。ここで説明されているような理解が十分になされているのだろうか。私が臨床心理学に対して抱く疑念はここにも表れている。何かしらの出来事、遊びの中で生まれる行為の一つ一つに象徴性を見出し、アイデアを提出するという光景はざらにある。しかし、それは本当に直接的な関係で結ばれているのだろうか。答えは否である。もちろん当人は気づいているのかもしれないが、仮にその象徴への連想が妥当だとしても、あくまでそれは可能性の一つである。象徴への意識は、容易に解釈に堕する。解釈の表層的な方法に堕し、それ以外の現れの可能性をつぶしさえもする。他人の無責任な想像によって。しかも、象徴へのアイデアを口にした瞬間に、それは口語という恐るべき強力な力によって、密接な連関を匂い立たせる。もっとも、かかるイメージを喚起させたのは他でもない人の心という同じきものであり、起きていることは十分に理解する可能性・素地がある。ゆえにかかる捉えを携えてその行為を見れば、直観的に当人の背景まで思い致すことすら可能である、と言うことはできよう。しかしここで注意すべきは事象の「象徴的な」捉え方自体である。先の定義では「代表するかのような」という表現を見落としてはならない。ある出来事が特定の何かに対し、必ずしも一対一で対応している訳ではない。象徴とは確かに“他の物事を表す”ものではあるが、そこで起きていることは、そのような連想を思い至らせる一連のイメージ群へ最も接近しうるであろう事なのではないか。いや、これでも正確ではない。あくまで、可能性でしかないことを常に意識する必要があるし、当人の内界において実際には言葉にされないイメージ群とは全く異なる捉え違えをしている場合も十分にありうるのである。そして何よりも、言葉は一面的にしか事態を捉え、表象しえない。限定された語彙で表わされるもの(言葉)は、現れたもの(現象)を十分に表すことはできない。それは既知の方法によって何かしらの混沌を切り分けただけのことだ。仮に表出されたものを、われわれの既存の方法で容易に定位させようとすることが非常に危険だと言っているのだ。「ぼくはユングが嫌いなのではなく、ユングの取り巻きが嫌いなんだ」という知人の言葉は私も以前に口にしたことである。曰く言い難いことを形にするという極めて危険な行為をユング自身が行っているという事実に対し、何の躊躇もなく象徴、元型などと口にする人があまりにも多すぎる。あくまでそれは仮想されたものだということを念頭に置かねばならない。出来合いのもので理解を代理させてはならない。


好きなことを書くよ。何かに絡めとられないように気をつけながら。

*1:精神分析事典』2002,岩崎学術出版社,小此木ほか