布置とか共時性とか

「ぐうぜ〜ん。これって布置だよ、きっと」
俺は冗談が嫌いだ。布置とか共時性とか言うな。人間の力の及ばないもので、簡単には説明できないものを運命のなせるわざで済ませる軽薄さが我慢ならない*1。しかも「偶然起きたことを“他でもないこの私”が目撃した」ことを殊更に強調して、自分自身に意味づけようとする態度こそが、その「布置」という言葉の価値、ひいては自分自身の価値さえも貶めるようにさえ思われる。つまり、目の前で起きた自身の体験そのものへの更なる接近をやめ、自己都合に終始した陳腐な解釈で満足してしまう。「いったいどういうことなのか」ではなく、「大きな力が私に祝福を与えてくれている」で済ませてしまう。
あるいは、そういう御方は「おめでたい奴」なのだ。自分が「偶然」という驚きによって彩られている、幸福で恵まれた人生を送っている、と。
そのような方々は驚くほど多い。新たな出来事の連続を送る彼らは一見して柔軟性に富み、さまざまな価値観に開かれているようでもある。しかし実際はそのような方々に限って、不意の出来事に対して偏った見方しかできず、自分自身に益することで無いと知るや猛烈な勢いで怒りだすか、そもそもそんなものは存在しなかったかのような態度を突然取りはじめるのだ。


たしかに、人間が自分の周りで起きることを意味付けようとするのは、自分の存在価値を形成するための行為である。意味付けることによって、人は生きていけると言ってもよい。逆に、己という存在に何も意味を見出さない者は、生きながらにして死んでいる、と形容される。しかしこの場合は「意味」を見いだせないのではなく、「肯定的」あるいは「自身を生かすための」意味を見いだせないというだけのことだ。己の思うままに生きることができなんだらそれが「死」だと言うのか。・・・言葉とは本当に便利なものである。恋に破れた若者が「私もう死ぬ〜」と言っているのと何ら変わりない。軽薄な言葉遣いはめったにするものではないが、使っている当人は大抵軽薄だと思っていないのが常である。本気で信じているのである。その時だけ。

何かに意味を見出すということ自体、人間の勝手な行為だということを知らねばならない。己自身と、己が認知できない存在を思わぬ底から、自ら顧みることもなく無邪気にも信じている者=つまり人間そのものは、結局どのようであれ「意味」をこしらえてしまう。


“あなたが指し示しているそれは、それそのものではない”ということの側面が、ここにも表れていよう。今あなたが鏡越しに見ている者、それはあなたそのものでもない。意味付けとは、客観的であれ主観的であれ、自分が使うことのできる限られた言葉によって対象を捉える行為であり、言葉とは、対象を、捕捉して自分の世界に取り込もうとする試みの手段・道具なのである。対象を完全に取り込むことなどできはしない。それどころか、「それ」は本質的にあなたとは別の存在なのである。
続けて言えば、意味もやはり完全なものではない。意味はある側面から対象を人間の知覚という手段でごくごく限定的に捉えようとする試みの結果であり、もしそれが完璧なもの、唯一なものとして存在しているのなら、「意味」という名ですら呼ばれることはなかっただろう。もういちど繰り返す。意味は、周囲の諸物を我が生に関わるものとして捉えようとする、人間の永遠の試みの所産である。


イデア論に持っていくつもりはない。私は「本質」を仮定しているだけである。


そして、俺は冗談が嫌いなのではなく、冗談を冗談と分かっていない奴が嫌いなのだろう。*2 *3

*1:追記:稚拙な表現で誠に申し訳ないのだが、ここでの「偶然」とは何かしら運命的な意味を持つものとして表している――としたが、全然意味が通らないので修正済

*2:http://d.hatena.ne.jp/obsessivision/20090708/1247050231…2009/7/8、この延長で記したもの

*3:http://d.hatena.ne.jp/obsessivision/20100905/1283698863…2010/9/5、また書いている