論理と、その外について

保坂和志の「考える練習」、第25回〜第27回の“それは「中2」の論理ではないか?”を読んだ。
思考の圏域は既存の物言いの中に縛られてしまっている(言語学者の誰だか忘れたが、言語が思考を制約している、というようなことを言っていたのを思い出す)。スラムのことを語る者がいても、彼がスラムを出た者であればもうそれはスラムの“言葉”ではない、とも。
つたない言葉を何とかして形にしようとする。人に読まれようとする。その中に、すでに自分自身しか持ち得ないものを失う作業はすでに含まれているのだろう。夢の世界を目が覚めた後に語ろうとすると、必ず全容が損なわれるように。ロシュフコーの「太陽と死は直視できない」という言、仏典で繰り返される「如是我聞」をここでも思い出す。だから/それでも私たちは、必ず捉え損なうと分かっていながら言葉を用いる。それは本質をとらえるに全く不十分な概念、妥当でない言い方で語ることになる。語りえないものをいかにして語るか。ここに私は長い間とどまり続けてきた。今も答えなど出ていない。
このことに対し、たとえば蓮實重彦は引用という方法で対応した、のかもしれない。
そしてとりあえず私は、人の言うことに全うに準拠しながら語るのではなく、全く別の文法で勝手に語ることにしたのだった。http://d.hatena.ne.jp/obsessivision/20110309
保坂和志の場合、それを不可能としていない。どうすれば語ることができるか、とか、語ることは可能か、などという言い方はしていない。彼は、「読む側」の論理ではなく、「書く側」の論理で書いたほうがずっとおもしろいんじゃないか、とだけ言っている。おもしろい、などと言っても「現実的な」橋渡しをしてくれてなどいないのは明白だ。彼は、一度その論理にはまってしまえばいい、と言うのだろう。身を以て体験すること――こういう言い方が、彼の言わんとする部分から絶望的に引き離されるのは分かっているつもりだが――つまるところこういうことなのかもしれない。
それは、たしかに(“当事者の論理”という意味ではなく、“論理的”の意を含む)「論理」ではない。たとえば、私が彼の文章を読んだときにひらめいたことを後になって思い出そうとして、そのあたりの文章を隈なく読んでも見つけられないように。ひらめいたのは、その“あたり”であって、そのあたりの“文章、語句”ではないのだ。