感情抑制の効かなさ

あるいは感情抑制の効かなさの自覚。自得した方法への信頼や依存がもととなり、周囲への不満が高じるケース多数。
ルールアウトと目される行為を行った者を以降もさらにマークし続け、以前は問題視しなかったケースをも殊更に取り上げようとする、など。
この対処・判断・解決は容易ではない。当事者のルールアウトの防止という目的を標榜することは一見妥当にも思えるが、監視する者の感情的な側面が十分に考慮されていないという点で致命的とも言えるだろう。果たしてその監視態度は妥当なのか?
監視する者が当事者に対し、否定的な印象に基づいて判断する場合、結局その判断は相手を責めるのが目的となる。そして、そのような感情を認め、受け入れてしまったことで、自分自身の姿勢そのものに大幅なこじつけを行わねばならなくなる。怒りの噴出に歯止めをかけられないのに、自分は公平な判断をしているのだと思い込もうとする。私は正しいことを言っているのだ、悪いのは相手であって私ではありえない、と。自分の言動の根底に怒りという感情が渦巻いているのにもかかわらず、だ。
当事者が悪く、私が正しい。これは、いつからそう決まったのか?「悪い」という判断は、自分で行ったものではなかったのか?いつのまに、自分がもっとも正しい、法の番人になったのか?
おそらくここには、自らの不安が大きく関わっているのだろう。今まで責められる立場にあったものは、「自分が間違っているのでは」という不安に絶えずさいなまれている。そして、責められる者から抜け出そうとして、「正しい者になりたい」という願望も抱える。さらには「責められる者ではなく、責める者になりたい」とも願うのかもしれない。この最後の願いがすなわち、怒りである。今まで自分を傷つけてきた者に復讐したい、こんなにまで自分を責め立ててきた者たちに復讐したい、私は不当な扱いを受けてきたのだから。
自らが、感情に突き動かされていることにもう一度振り返る必要がある。