「場」としての言葉

すでに私は何かに取り憑かれたかのようにうわごとを口走っているのは分かっている。しばらくここで書き続けるのをやめることは出来ないだろう。
ここでもう一つ検討したいのは、場としての言葉だ。最近気付かされたことの一つである。知り合いの女性は言った。言葉はその場――人とのかかわりや状況――によって意味を変える、と言った。これは間主観性という考え方にかかわってくるのだろう、と。言葉は記号としての意味を持っているのではない。これは私にとって驚くべきことだった。もちろんどこかで気づいていたのかもしれないが、しかしここまではっきりと言われたのは初めてだった。確かに最近の生活で、声かけのタイミングが非常に重要なものであるとは自覚していた。ここで言えば相手は自分の言っていることを理解しないだろうし、この言い方であれば相手は誤解して不快感をあらわにするだろう、等。そこで自身が考えられうる最も適切なタイミングで私は声かけを行う。あるいは、修飾語に当たる言葉の順序をあえてひっくり返し、同じことを2度言えば相手は十分に理解すると見込んで、そのように声をかける。これらのことは、言葉を単なる情報として考える際には、思い到らないものである(ここでいう「情報」とは、私にとって単一の意味をもつもの、意味とイコールで結ばれ、それ以上の何かとつながっていることのないもの、それよりも少なく、意味を欠いていることのないものとして使っている)。彼女の言い表しに、私はこう応えた。「それは、実は言葉そのものは意味を持たず、置かれた場、状況でその意味を成立させる、そしてそれぞれの関係を取り持つ場の「存在」のようなものだということになるね」。
だとすると、私はまた考えを改めねばならない。言葉はそれを発する人間によって生かされ、いかようにも変化する。言葉は煉瓦ではなく、空気である。ではわたしが今まで言葉にしがみついていたのは一体、どういうことだったのか?言葉とはいったい何であるのか?少なくともここでは、「自分の言葉に惚れこんでしまっている」私は、そこに何かしらの魅力を感じ、しかもそれが快楽に繋がっているということが考えられる。想像したくないことではあるが、それが何か自分を自分以上のものにするための何かだと知ったがために、それを幾重にも積み重ねて行くことにアイデンティファイしてしまったのだ。これは自慰行為である。そして自我肥大の側面的な現れ、試みである。年を重ねれば言っていることも考えていることも変わっていく。そして、かつて言っていたこと考えていたことが、想像できなくなっていく。それは、自分にとっての言葉が自身を捉えるに不十分だったということでもあり、言葉がイメージと等価ではないということの証左でもある。驚くべきことに、言葉はイメージを担うには全く不十分であるどころか、それ自身が持っている(と思われていた)意味さえも実は保持していなかった。こういうふうにも言えるだろう。基本的にイメージの中で生きている人間にとって、言葉が“意味”を持たないのは当然だ、と。
言葉など無くても、人は人とかかわることができる。では言葉などなくてもよいのか?ではなぜ言葉は使われるのか?コミュニケーションの重要な手段として用いられるようになったのではなかったのか。何が「重要」だと考えられたのか?パパラギの話*1をここで思い出す。ここでの部族の会話は、相手の言葉を聞いて応答するのではなく、相手が話し終わるまいが自分の言葉を重ねるのである。そこでは、いわゆる我々が用いるコミュニケーション、情報交換、意志疎通という目的では会話がなされていない。まるで相手の言っている内容には関心がないようだ。そこでは自分が話していることが重要らしい。自分の存在を、「話す」ということで相手に伝えているようである。この現象を言葉の二次的な使用としてしまうのは簡単だ。つまり、一旦意味あるものとして用いられた言葉を、回帰的に発話そのものに重要さを認めて用いているのだ、と。しかしこれではやや不自然さが残る。仮に文化的に発達しているとしても、言葉に情報としての多大な信頼を寄せるような認識がある種のシステマティックさをもって浸透していたとは考えにくい。ここで考えられるのは、言葉における情報としての側面と存在としての側面という二重性が同時に育っていったという観点。つまり、音と意味。


わからん。次に回す。

*1:パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』1981,立風書房 著:ツイアビ、訳:岡崎照男。参照:wikipedia「パパラギ」