「〜であるにもかかわらず」

世界が轟音とともに亀裂を走らせ、自身が立っているところなどないかのように地はひっくり返る。転変する。転覆する。分かり切ったことなど何もないと分かっているはずなのに、何かを分かったかのような気になって、つい私は足を滑らせる。そういったことに関心がないのならば、それはそれで何も問題はないのだ。そもそも世界崩壊、という言葉が何を意味しているのか…というより、この言葉から何を思いいたすのか。ここが肝要なのであり、その意味がどうこうということではない。自身が今息をしている場所があとさきに何も変わることはない、と思っているのならば、足を滑らせることもないだろう。その崩壊の瞬間は、まさに自身が自身であるという基盤、確信の根本的な不安定さと揺れ易さがそこに根を張っているのである。言葉など、そこにどれだけ仮構しようともどれほどのものでもない。そう、上空に向かって積み木を積み上げて行く姿を想像してみればいい。風が吹けば崩れ落ちる。地が揺れれば崩れ落ちる。そういうことなのだ。言葉など何ほどのものか。しかし、生きている限り、言葉を失うということはない。言葉がうめき声として、意味をなさないようになったのならば話は別であるが――「人間らしく」あるいは「自分らしく」生きようとする限り、私たちはこの根本からの揺れ動かしに耐えることなどできないのである。そして同時に、いつまでも言葉という何の役にも立たない、記号――すなわちかつて何らかの対象に関連した「意味」を担っていたもの――にしがみついている。たとえ狂気に陥ったとしても、そのなごりのように言葉を口にし続けるのである。まるでそれが自分たちを作り上げてくれるかのように思っているのだが、しかしその口にする言葉のようなものは、残念ながら向かうべき先を失っているために口にする先から消え去って行くのである。またあるいは、空中に漂う庭園のように、そこに明確に足場をつくることもできないまま、なにがしかの意味をもっているかのように言葉は一つの城を作る。そう、今想像していただいているのは「天空の城ラピュタ」だ。どれほどの力を持っていようとも、そこには致命的な部分がむき出しになっていて、それゆえにそこにたやすく立ち入られればその帝国は崩壊してしまう。「人は大地から離れては生きられないのよ」とシータは言った。まさにそのとおりだろう。ラピュタは固定化した妄想の側面だと言えるだろう。だが、話を出来うる限りもとに戻すことにしよう。地に足付く者はその崩壊の瞬間を想像することに難く、地に足付かぬ者はそれゆえに自らが預けた魂さえも極限遠の彼方になげうってしまうのである。少なくとも、努力すべきは我々の基盤の緩さへの自覚である。