光のとらえがたさ

それながらにしてそれではない――例えば、自らの理想を一つの対象に与える一方で、自身のアイデンティティが全く成立しないような状況。光はそういった人々の願望や妄想を一身に受ける。しかしその熱い眼差しの一切を、伸ばされた数々の手を簡単にすり抜けていく。しかも人はそれに気づくことなく、神よ、神よと嘆きの声をあげて縋りつこうとする。まるで何かを見失ったかのようだ。あるいは理性的な判断を放棄したかのような所業だ。宗教における信仰は、掲げられる神への恩恵を受けるための祈りを主とする。また、その指導者は己を神そのものとして位置づけようとする。神とは何なのか。それは(彼らにとって)人の望む物を恵み与えるものである。祈らねばならないほどに望むものは得難いことから、神は通常の人間以上の能力を有していると捉えられる。光が神と同一視されることが非常に多いことに注目せねばならない。もちろんアニミズムがこの現象を説明する、と片付けることもできるが、それでは現象の背景を名付けただけにすぎず、問題の解決には何ら役立っていない。光が我々人間を圧倒するほどに惹きつけるのはなぜなのか。それは、非実体性という言葉が大きな位置を占めていると考えられる。光はそもそも非実体的なものである。求める先には何もない。しかし、そのまばゆさに人は引き付けられ、またこの世を照らしだすことを奇跡としてそこに神の御業を思うのである。仏教でも同様であろう。光こそが仏の実体である、という認識がされているという。まさに視覚に頼る生物故に思いいたることである。しかしここに至って、少なくともそこには何らかの作用が働いていると言っていいのではないだろうか。生物学的な特性を超えた何らかの作用が。
見える、ということは私たちにとってあまりに重要な要件である。我々はこの眼を以て諸物のありようを捉えるのだが、「見える」という働きが機能する場合、そこには光学的な機能が十分に働いている。光は我々の視覚に大きく貢献する。しかし、我々は光をそれ自体として捉えることはできない。もちろん客観的に光量を測定することはできる。しかし、それは光の程度を測ったものでしかなく、純粋な光という存在を我々は想像できない。照射されているという事実を前提し、光を思うしかないのである。我々の能力に介在するものが何と捉え難いものであるのか。光とは、一体何であるのか。この疑問をひとたび口にした時、その問いが意味を為していないことをも直感することだろう。諸物はそれのみで語ることはできず、あくまで我々の生活世界の内に引き込むことでしか理解することはできない。それでもなお、「〜とは何か」という問いが絶えないのは、それが持つ我々にとっての意味を我々が求めているということに他ならない。そのものの性質を述べるとき、おのずとそれはいわゆる客観的な記述になってゆく。我々の介在を排したところに、諸対象の本質が現れる、という考えなのだろう。しかし、それでは物事の一側面を、ほんの一側面を削り取っただけに過ぎない。我々は我々の身体化された言葉でしか物事を語ることはできない。「見える」ということ、この事実が光とは何かを理解することのできる最初の手がかりとなることだろう。「見える」ということに我々の活動は大いに左右される。それはまさに端緒である。いかに影にあろうとも、その動きの手段はあくまで視覚、もとい光に頼るものである。いや、陰での動きは光を本当に必要とするか、悪であるか。答えは否である。本来「影に隠れて」ということすら実際は行為の主体にとって意識されていなかったかもしれない。影ということが分かったのは、相対的に明るいところで、より「見える」処で活動する他の存在認知を容れるような場所で動く存在が別様に生起していたからである。影に潜むものは、あるいは隠れているのではなく、もとよりそこに居たのだ。しかし明るみにいる者がその存在を見出すようなことがあれば、それは我々の関心を引くこととなり、目障りにすらなり、邪魔に思う。では影に潜む者は、光に照らしだされることで如何様に変化するかというと、実際に変化することはないのであろう。もとより影にあって蠢いていたものが光を必要とするのか。彼らは眼を失ったのではなく、元より眼を持たないのかもしれない。少なくとも、光を必要としないような状況下に在るということは、闇に在って自足するということではないか。必ずしも、光を必要としない存在もある。これは念頭に置いておかねばならない。しかし、それに対して我々「明るみ」の中に在る者にとっては、それは異質な存在として目に映るし、光を失うということはもはや己の感覚を暴力的に奪い取られたに等しく、恐怖や不全の想いが噴き上がるのも無理からざることである。基本的に光の下にあるものは、闇を恐れる。あくまで“光”が“闇”を恐れるのではなく、“光”の下に在る者が“闇”を恐れるのである。しかしまた、先ほどは闇にあるものが盲いている場合のみ言及したが、闇にあるものは必ずしも光の下にある者と完全に別の存在ではないことも考慮せねばならない。彼れは盲ているのではなく、あくまで光の下――神の恩寵の下――にありながら、闇に潜んだということも十分に考えられうる。更には(レトリックであるのを重々承知で言うが)闇という光射さぬ場所に潜む者をどうやって見出すというのか。もし光の下に在るものが彼らを見出すことがあれば、それは我々が持つ五感を超えて、もはや直観的に彼らの存在を知覚しているという他ない。このとき、光の下に在る者は闇にあるものと何かしての存在的係累を負うていることも勘案されるべきなのである。そして最後に、あらためて闇の中にあって光を知る者について言及を試みる段に至るのであるが、これは先の文章を参考にせよ、とのみ述べておく。
見えるということが己の能力を拡げ、より多くのことが可能になったかのように思われるが、彼らの、そうでない状況下での無能も同時に付加されているのである。だからこそ、人は光の下に安住することを願う。それは定常状態を望むものの性であろう。己の能力が保障される場にとどまり続けたいという、本能に近い、ある意味短絡的な志向である。そして、「見える」能力を有する者はさらに「可視的」であることを望む。欲望はとどまり続けることを知らず、己の限界も忘れて求め続ける。しかし、可視的な世界の極微に見えないものがあるということなど想像できるだろうか。つまり、見えるものが見えるということは、光と闇が良い程度に織り合わさっているからこそなのである。純粋に「明るい」状況で、人は逆に「見る」能力を奪われる。全てが明るみにあるのならば、我々は何を見ず、何を見ようとせねばならないのか。また、その明るみの相対的な異なりによって我々はそこにあるものを見ることができるのでもある。あらゆるものを見ることができる、とはどのような状況か。それは神の視点であろうか。我々人間にとって、それはまず不可能なことである。光によってもたらされる視界の自由さは、限定されている。もしすべてが明るみにあったとして、立体的構造物の裏側を、表を見ると同時に視認することは不可能である。見るということの一端を光が担っているに過ぎない。
ここまで書き進めてきたのは、我々が「見える」ものに対して「見る」という行為を働かせることの限界に関してではあるが、それは対象との向き合い方を挙げているに過ぎない。ここでは、捉え損なう、ということをもう少し検討しなければならない。それは「見えない」ことではない。見えるのだ。見えてもなお、むしろ見るということによって、それは我から遠ざかってしまう。それは簡単に知識に還元することもできよう。しかし側面的にすぎない。では見なければ良いのか。確かに見ないことで別の感覚を用いて、事物に息づく本質の看破が可能かもしれない。優勢な知覚を塞ぎ知覚することによる理解も可能であろう。しかし、基本的に対象がなければ認知さえもできない。悟りという本質の看破さえも、「ある」という認知を一旦棄却してから始まるのではないか。では元より見ることも触れることもできないものをいかに取り扱えばよいのか。そこに「ある」のに、「ない」。得られるやもしれぬ程にそこに確実に見てとれるのに、決して得られることはない。きわめて強い焦慮がそこに生まれる。「声はすれども姿は見えず ほんにあなたは屁のような」屁どころではない。そこに現れるものは名状しがたいものである。何らかの形をそこに現したかと思えば崩れ、また気まぐれに別の様態に姿を変える。そこには言語化しようのない存在性質がある。Langer(1952)はイメージの特徴を「複雑多様な関係の同時提示=representational現示的」と表現した*1。言語的表現と非言語的現われは相容れないものなのか?そもそも言語とは何かを不特定多数の人間にも理解できるために開発された伝達手段である。それはあくまで目的的であり、結局はその目的に合致していれば言葉の役目は終わったと考えていいだろう。しかし、それ自体を考究しようとするとき、言葉はその瞬間に無力になる。何を、どういう風に言い表したいのか。そのポイントが明確でないならば、そもそも言葉による対象の純粋かつ十全な表しなど不可能なのである。イメージとは確かに多様な意味性を帯びていると言っていいだろう。観取されるものは個人によって異なる。それを一般的、普遍的な意味に封じ込めることは不可能である。もし何らかの指定ができるとしたら、大多数の者の観取した言葉を総計したそこに共通点を見出す、つまりそのイメージに対する、あるいはイメージそのものに対する人々の捉え方が表現可能となるに過ぎない。構造というメタ的なレベルにおいてしかアプローチすることはできないだろう。では、言葉を持つ者にとってイメージは決して我々の意識における持ち物――言葉によって捉えられないものであり、つまりそれがより抽象性をおびているとしたら、それは恐らく特定の見地から、という断り書きを入れない限り何も表現することはかなわない。「光」という、イメージの中でも最も不定形かつあまりにも広いフィールドにおいて当然のように現れるものは、決して我々が捉えうるものではない。つまり、これが「それながらにして、それではない」ということの所以なのである。同定不可能性はこれで一応の説明がつく。言語を絶するとは言い過ぎであるが、そもそもイメージと言葉が相容れないという点で光という、不定形なものを捉えることが出来ないのだとも言うことができるだろう。
しかし、光の中にあることが更に意識の裡において不可能であることをさらに述べるほかない。「光の中にある」とは確かに現実的な体験ではないため説明することさえ非常に困難だが、端的に言えば、その体験は己の感覚を全てを状況に投げだし、委ねた体験として想像していただきたい。ヌミノース体験、臨死体験、つまり自身による自身の支配を逃れた自身が体験せざるを得ないような状況である。そのなかで人は光に包まれ、光と同一化する。至高の体験とも言われる。“光と同一化する”とはすなわち、融即の瞬間なのである。融即において、自我は原型を失う。これは超常体験において光の内に在ることが恍惚とともに体験されることから説明できる。私という定型が崩れ、あらゆるものに対して開かれるとき、自身は自然の内に抱かれることの先へと向かってゆく、すなわち溶け込んでゆく。そこに辛うじて残る「感覚する私」、あるいは「感覚としての私」だけが、その事態を体験することができるのである。このとき、あらゆる表現手段はその意味で役割を失う。人間が一般に認識しうる体験でないこと、そして体験する「私」自身は「感覚」さらには「体験」そのものとなるが故に、言葉という表現手段を持ち得ない。このとき、「光の中」、より正確には「光」という体験は、言述不可能という点から、事後性という性質を同時に持つことになる。また、この状況が現実の光のあり方と大きく異なっている点にも注目しなければならない。「光」を体験として感ずる時――それは恐らくキリスト教における神との出会いと大きくかかわるのだろうが――とは、光が環境や光景そのものになっているのである。現実において、光とは世界ををより明晰に認識することへ導くための手段であり、現状況における光景の後にやってくるものであった。あるいは、我々が何の意図もなく生活する世界において、光は視界に広がる世界を可視的にするために在る、背景としての役割を持つものであった。そういった背景としての光が我々にその存在をそのものによって主張する時、それが「可視」を超えた不可視なものへと一瞬で移行してしまうのである。この状況が現実的でないということをさらに重ねて言及しよう。わが身をその環境に曝さねばならない、というのは人の生の様態をよく表している。それを表現しようとする時、その体験、事態はすでに過ぎたことである。語ろうとするとき、それは人の認識に掬われたものは途端に過去のものとなってしまう。体験の事後性がごく普通に起きていることからも、この光の中にある体験の一端は現実における体験と言葉の関係を象徴するものとしても捉えることができるだろう。

ここでは科学的な説明によって光を語るのではない。あくまで私個人の妄想であることを理解していただきたいのだが、しかしそれでも光というものは私を惹きつけてやまない。己の本能に刻まれた走光性によって群がる虫のように、私は何か本能に突き動かされているのだろうか。それは、もしかすると、己の追い続けるものを神秘化したいという己の先在的な願望が私をここまで突き動かしているのかもしれない。あるいは、他の文献においてもなぜここまで光が他と異なって高い位置を占めて表象されるのか、という素朴な疑問から発せられているのかもしれない。少なくとも、私は宗教の名を負うた現存の団体、特にここ百年そこらで出来たような新興宗教の類は悉く信用していない。ニューエイジにおいてもしかり。神秘的なものを求めるがあまりに、彼らは何か道を誤ってしまったのだ。その不可思議な力を神秘化したままにしておくことにより、己の存在価値を実は毀損しないように必死になっていることに彼らは気づいていない。しかし、それは私自身にも言えないだろうか。あらゆる神秘的な可能性を一旦棄却して検討するという姿勢を一見取っているように見えていながら、その実前提となる部分をろくろく検討もせずに仮想に仮想を積み重ねているという可能性はないだろうか。となると、私は非常に慎重にこのことを考え直さねばならないのだろうか。あらゆることを客観的に。しかし、この問題は私自身のものなのである。他の領域を侵すために何がしかの論をうちたてようとして言っているのではないはずだ。しかし、しかし、しかし……己を疑い続けていくと際限がない。もはや分かり切っていることだが、この論を検討する際に、私自身の性質を同時に勘案するべきである。
ではまず、気を取り直して光の同定不可能性について言及する。われわれが光と呼ぶものとは、同定可能なものでもない。それは非実体性が大きくかかわっているからなのだが、それは視覚的問題のみならず、精神内界における表象のされ方にも大きくかかわってくる。同定不可能性というこの一点を見逃してはならない。不定形なものの捉えが、それこそRorschach testのように様々なありようで被検査者の眼前に現れるように、一定ではないということは言うまでもないが、しかし非実体的であるということは既に不定形という性質を含みこんではいるものの、しかし早朝の涼やかな空気のようなものでは決してない。朝の涼風はそれ自体として人に受け容れられ、人々に与えるものは特に想像の通りのイメージを持って迎えられることが容易に考えられる一方で、光とは我々視覚によって生の大部分を費やす者に様々な姿をもって現れる。心を病む者にとっては己を脅かす存在の悪意ある攻撃と映ることもあろう。時にそれは根源的とさえ思われることはないだろう。なぜなら、あまりにも光はありふれているからである。普遍的な性質をもった光。検討すべき点をあえて限局していないのではない。このような見解が同時に発生しうる可能性が十分にある。ここでは、光という不定形なものに対して我々がある見解に対する別の見解を述べた時にその見解が無条件に棄却されるというわけではない。あらゆるものは同時に並置され、そしてその一見乱立した状況においてのみ、光はその発せられる場所を示す。しかしそこに光源が存在しないため、我々はそこに向かって見解を述べ続けるしかないのである。それは捉え難いものの性質を大きく表していると考える。

*1:Langer, S. K.,Philosophy in a New Key: A Study in the Symbolism of Reason, Rite and Art, Mentor Books, 1952 S.K.ランガー『シンボルの哲学』