光/闇の知覚による罠

とりたてて執拗に人にとっての全的な光の意義を追求する必要はない。充溢とは量的な集積ではなく、あくまで質的な達成でしかない。眠りの内にある者はそこに浸り続けることを愉しみとし、翻って陽光の下にある者は、その明るみを“我”の明るみに置き換え、より明晰で際立った存在として立つことを願う。文化が発展すればより更なる発展と利便を追求し、より「我がもの」で在ることを望む。夢と現が織り混ざる世には、己がいずれにも在ることができるよう、薄闇を身に馴染ませ、その維持を図るだろう。いずれにも在ることは可能なのだ。少なくとも「そこ/それではない」という違和を抱かない限り、人はその場に在り続けることができる。違和は己の存在感覚を揺るがす。自明であったこと、己の世界-内であったことが外へと転回する。眼を持つ者が闇の中にあることを自覚するように、眼を持たぬ者がこの世に光があったことを知らされるように。光とは毒である。己を際立たせしめる病を植え付ける毒である。己を不明であると知らしめる毒である。毒によって人は目覚める。己という「個体」があることを、より明晰に知らされる。本来見えずともよいのである。不明であることは、かつて不明という名も与えられず、罪などでさえなかった。しかし、我が器官の外に向かう能力の目覚めは光を受け入れ、己を照らすことにその関心を向けた。しかし、いまだに自己とは本来毒によってのみ成り立っているものではない。のみならざるがゆえに、照らしだされざる場は殊に注目され、より明るい/暗いという二分によって超克すべきものとされた。不明であることは罪となった。しかし、覚醒と眠りは本来異なるものであるが、いずれも必要である。開拓と維持。開拓することの病。薄闇の中にいまだ在り続けることを陽光のもとで知った者は、己を輝かすことを願う。己を焼き尽くさんとする炎、“命の炎”なるものを得んとする。しかしそれは光ではなく、己の狂奔である。不安定で充溢しうるものを暴力的にかき乱し、惑乱する行為である。己を陽光によって輝かそうとただ希う者は視野が狭く教条的となるが、ただ己を燃やし尽くして光らんとする者は己を法とする。光は己を狂わせる。この光をいかにして闇と対置しうるというのか。可明/不明という一義的な二分法で区別できるものではない。それはそもそも我々より先にあったのであり、状態維持を容れる闇と狂気に至らしめる光を等しく並べることは本質さえも無視する行為である。それを可視・不可視という知覚的な根拠を引き合いに出すことで善悪を定めている。きわめてナンセンスである。闇の中において光は闇を打ち破る天使の勝鬨と響き、また上位界の入口でもあった。闇は光の中において不明、それゆえの明晰さに反旗を翻す悪であった。ここには構造的な異なりがあり、機能的な側面からも確実に異なる。