動機作りの資材

続いて、これらの資材となりうるものを検討しよう。即座に答えを言語化する愚をけっして犯さないこと。タバコをあとひと月でやめる、ということ、精神的な側面に限りなく近づいて検討を行うこと。言語化の愚については、倫理的なものがあると感じている。それは、傲慢さでもある。あるいは、無知の証左である。簡単に分かるような答えは、ほとんど何も見出していない見当違いなものであることがほとんどだろう。同様に、論理的な動機付けも排除する必要がある。何かをガマンする、というのも安直に過ぎる。精神的に追い込むのは、一過性のものではないのか?何を、どのように人格構造に組み込むか(結構本気で言っているのだ。自己革命などとクソがつくほどくだらねえ言葉は使ってはいけない。理想主義・進歩主義などではない。それが成長するということだ、と言い放った人を思い出すが、あれも無自覚なイデオロギー的思考にもとづくという点でまったくの愚である)。
そして、仮に堅牢な装置を作り上げたとして、それが脆くも崩壊してしまう、ということを忘れてはいないか。それは閉鎖系だから、崩壊の危険性に対応できないということでもなかろう。開放系であったとしても、それが十分に機能しうると保証できる者はいないだろう。では、可塑性というアイデアは使用に堪えるのか?もちろん可塑性に富むことそれ自体はあまり問題ではなかろう。まずいのは、それにたよりきってしまうことで、いったい可塑性に富むことが自分自身なのか、自分がやりたかったことがそもそも何だったのかを忘れてしまうことだろう。
ひたすらに、自らが少しでも必要だと思ったことを容赦なく盛り込み、追い込むことができるように、まずはその素地づくりが不可欠だと思ったのだ。私のどこに「もうこれでいいや」「もっと自分を愛してあげなよ」「今の自分で十分」などと言う目くらましのような言葉が巣食っている?誰がそんな言葉でそそのかすのか?勘違いするな、惑わされるな。もう、時間がないんだ。安住するのは絶対に許さん*1

*1:一応言い訳がましく言っておくと、これは自分以外の者に掛けるための罵倒の言葉ではない。追い詰められ、にっちもさっちも行かない者には、上のような“優しい”言葉も必要だろう。何が必要かってバランスだろうよバランス。ぎりぎりまで追い込んだ状態で、バランスを取り続けることが自分にとっては肝要だと感じただけなのです。