動機に関すること

分からんこと、極まる拙さと分かって言おう。


エネルギーが残っていた。あるいは自己肯定感とかいうものが若干あった。それは、精神状態のよさとも言い表すことができよう。ここで持ちあがる懸案一つ。これまでに、そして今も同様にできないことがあった。スポーツだ。自分にとってこの1年近く、必然性を感じられずにいた。しばらく、遠ざかっていた。今になって始めようというときに、数回練習に行ったものの、それがコンスタントに通うほどには到れずにいる。動機づけが十分でない、と感じる。そしてこの今、テンションがやや上がり気味でこのことを振り返ると、自分の煮え切らない態度を責めるという方法を取りだしたのだ。何だグダグダしょうもない理由ばっかり付けやがって、結局行くの行かないの、自分の都合のいい理由を付けて納得させてるだけじゃねえか。だからおめえは自分のことをキチンと考えることができねえって言ってんだ。このバカが。テンション上がったときしか偉そうなこと言えねえのか。低かったっておんなじ態度とれよ。一貫してねえんだよ。
そう、責める相手は、煮え切らない自分だけでなく、その時の気分でいとも簡単に語気を変えるような軽薄な自分でもあったのだ。
(ここあたりで他一般の人々に視点が移る)
ったく機嫌がいい時だけいい顔しやがって。機嫌が悪くったって良くったってやることは同じだろうが。「恋人欲しい」とか「結婚したい」とか「金と地位と名声がほしい」とか、自分が言ってること、やってること分かってんのか?ほんとうに自分自身を問題視したことあんのか?本当に、それは必要なのか?いらんだろうが。何が人間らしさか。流行に乗っていればそれで満足か。誰かが言っていることを受け売りして、それで満足か。誰かと同じことをやっていなければ不安だなんて、いったいどこでそんな厄介なクソの役にも立たないものをしょいこんできたんだ?
(そしてまた自分に視点が移る)
一旦この閉塞した状況を考える機会を設けなければいけない。この短い時間でできるのか?他のことに気を取られず、真剣に取り組むことができるのか?以前自分でいったように、イップスとも言える精神的な引っ掛かりのなせる業のようなものを解消するために、ひとまず括弧に入れる(判断停止する)必要がある。そこで思い浮かんだのが、なぜか『ノルウェイの森』のラストだった。ワタナベは緑に電話をかけ、「どこにいるの?」と聞かれて答えられず、<僕はどこにいるのだ?>と途方に暮れる。あの一瞬のうちに広がる空虚、二人の間の話だったはずのものが突然、自分の、自分自身の核に差し迫って問いかける。どこにいるのか。そのまま、考え続けなければいけない。たわごとや些事に気を取られてはいけない。何をしたいのか、どのように動機づければいいのか、いったい何に引っ掛かっているのか、どのように計画を組み込めばいいのか。
自分の思うようにならないところをなおざりにしてはならない。「そういうもの」などと思ってはならない。常に改善すべき、欠陥を構造自体にはらむものだと自覚しなければいけない。最善手とは言わずとも、よりよい手を打つよう努力しなければいけない。有能などと、絶対に思ってはならない。
ただ、たちつくせ。こたえなど、ない。