臆見

どうやら私は、「理解したい」という想いに取り憑かれているのかもしれない。


物事を見透(とお)し、その遥か先まで、私の周囲で起きている/起きていないこと、あるいは見えること/見えないこと、その有象無象を捉え切りたいと思っているようだ。しかし、勝手な夢を見る肉と骨でしかない私にとって、できることなどあまりにも少ない。たった今、この瞬間の、自分を含めた事況すらも把握できずにいる。これは自分に限ったことではあるまい。それなのに、「この世の真理を見つけた」と声高に叫び、頭の中でつながっていく理路――いや、「理」でさえもない、ただの“けもの道”を――すべてに/すべてへ通ずる答えだと示す者は少なくない。もちろん反論もあるだろう。おまえは何も分かっていないだけだ、私の発見したこの真理は、いくらでも検証可能だし、数多の傍証を今でも挙げることができる、と。……確かに私は何も分かっていない。あなたの見出した「真理」は検証可能かもしれない。だが、あなたは他の人間に対し超脱した視点を持ち、神とも等しい直感を得ている、ということを誰が証明できるのか?自分で自分を保証することなど不可能だ。それは詐欺だ。自己述定の不可能さについて聞いたことはないか。あるいは、あなたが自分について話し始めた時、その言葉はあなたとは別の存在であることに気付いていないのか。あなたは言葉でできているのか。旧約聖書の冒頭「はじめに、言(ことば)ありき」を引き合いに出したとしても、言葉と存在が別物だということはうかがい知れるだろう。あなたは、あなた自身をこの世界に、あなたの生にしっかりと意味づけたい、定礎したいという願望のあまり、自らの臆見(ドクサ)を真理だと思いこもうとして、牽強付会の論理で結びつけているだけだと考えたことはないのか?その可能性はないと言い切れるのか?


これは虚無主義でも、相対主義でもない。そんなセンチメンタリズムでものを言っているつもりはない。神がいないことの悲しみを自分で気づこうともせずに、自らを支える「分かりやすい」ものがいないと拗ねて屁理屈を捏ねるなど、愚の骨頂だ。


真理云々の主張に反して言うならばこの世界とは不安定で、無意味なものだろう。ただそれだけを取り出して述べたてるから、みな喪に服したまま動けなくなる。そうではなく、ただ「今ここに在る」と感じられること、それがどういうことかを自問し続け、同時に外に向かって常に開かれているようにするのが「適切」なのではないか……もちろん、視点の位相は数限りない。さまざまな考え方はあろう。真理の探究もまた許容されるだろう。ただ先に挙げた真理の発見云々と決定的に異なるのは、それは数限りないものの見方のひとつでしかない、という点にある。思考においては、まずはじめにあらゆるものが同じ地平に立っている――べきである。絶対など、単なる感傷でしかない。できることと言えば、ひたすらに自らの持つもの、こと、ことばを惜しみなく注ぎ込むこと。永遠の徒労。