「切りとれ、あの祈る手を」第五夜

「切りとれ、あの祈る手を」第五夜、読了。
第三夜のみ感想を述べても仕方のないこと。連れに佐々木中を紹介すると「え、代々木忠?」と聞き返された。いや似てるけどね。こちらは各地で上映中だそうです。『YOYOCHU Sexと代々木忠の世界』。置いといて。


この本には“明日を生き抜く力”がある。佐々木氏の語りには熱と力がある。彼は「無頼」と言われるように、既存のフィールドに守られてものを言っているような印象がない。特に第五夜まで読み進めるとわかってくるのだが、彼の場合は卓越した知性、天才性という形容よりも、学問畑の筋骨隆々の逞しい農民という形容が似合う気がする。肉体を離れて知性へ向かうのではなく、知性をもって肉体もろとも引き摺りあげるような(どこへ?)力強さを感じる。


まあ、これを読み終わった方々の感想はどれも納得がいく(アマゾンだけだが)。たしかに大学構内で見るアジビラのような煽動的とも取れるテンションではある。「革命」「絶対的勝利」いくらか鼻につく言葉も見かける。論理の飛躍…についてはわからないので言わない。ええい歯切れが悪い。誰かが語った何かについて表現するためには、結局のところ自分でわかる別の事柄についてしか語ることができない、そう思っている。がしかし、もう少し、確実にものを言う努力をしよう。「ここで、この問題を生々しくわれわれ自身のものとして受け取るために、さらに迂回を重ねましょう。決して閉じることのない弧を描くようにして。」あかん、自己弁護にしか聞こえん。


第五夜のキーワードは文盲率、だろうか。これまでに識字率が高かった時代はほとんどない。12世紀も13世紀も15世紀も18世紀も。しかも文字や文学を学ばなくともよい、とする時代もあったという。それでも文学は必要であったし、必要である、と。曰くドイツの貴族ロベルト・ミゲルスは「学問こそ革命の先駆けでありわれらの敵である」と言った、と。曰くドストエフスキーの生きていた時代は識字率が5%。それでも彼はあの長大な作品を書き、今に残っている。これがどういうことかわかるか、と。ロシアの文豪たちは1%以下の人々が読むことに賭けて作品を生し、それに勝利した。ギリシア人が残した文章の99.9%は失われたが、0.1%は残った。ならば、我々も賭けようではないか。我々は0.1%でも残されれば勝利という圧倒的有利な立場にあるのだ。いまだに終末論を、文学の終末を喚く者たちは多い。そんな者は放っておこう。人類に残された生は単純計算しても380万年残っているのだ。ニーチェは言う。

人は苦悩して言う、自分が何をなすべきかわからず、自分の人生に意味があるかもわからない、と。しかし、それは自分が何かの原因であり、行為の主体であると考える思考の過ちからくる偽の問題に過ぎない。君は何かをなし、それが意味を成すのではない。君は「なされている」のだ。「君はなされる!いかなる時でも!」と、歌うように彼は言う。  (p202)

しかし、書いたものを発表するのは苦しいことでもある。また、制作者にとってはそのプロセスが重要であり、できたものには大した重要さはないかもしれない。しかし、賭け続けようではないか。「多くのことが、実に多くのことが、まだまだ可能なのです。三八〇万年の永遠が、われわれを待っているのですから。」



しばらくこれだけで生きていられるかもしれない、そう思えてしまう。ロマンチックにも聞こえる。我々は星座と共にある、ならば我々は我々にできることをしようではないか、と。
いや、彼の言葉に心酔するのは留めておこう。私は感情的な反応こそが意識的な判断を鈍らせることを痛感している。二度とその愚は犯すまい。もちろん、彼の言を否定するのではなく、やはり私は自分自身でしか、自分に言葉を刻みつけることはできないのだ。折ある時に、彼の言葉を思い出すだろう。思い出さずとも私は彼の言葉に動かされていることもあろう。それでも。*1自分で考え続けなければならないのだ。それこそが、私の選べる一つだけの道だ。

*1:これこれ!!