応答への返答

私は足踏みして、先に進もうとしていないのだろうか。目の前のことを恐れて、何もできずにいるのだろうか。
そうかもしれない。それは、真実だろう。見た目には、何もしていなければ「何もしていない」と見られるだけのことだ。たとえ何もしないながらも、それについて考えたり、恐れを感じていたとしても、結局は何もしていないのと同じなのだ。私は何度もこれについて自問してきた。実際にそうなのだ。
先の「切り取れ〜」の感想へのコメントは、読むほどに突き刺さる。「何が基礎なのか知らないと、やったつもりで終わる」。そうなのだ。何もせず自問すること自体が不毛で、無意味で、惰弱である。つまるところ、「ただ、やれ」という言葉だけが、至上である。“しかし”、だ。これに関しては結論から述べることができない(結論など持っていない)ので、反射的に、散発的に自らに湧いた反論・疑問を自答し、吟味していこう。書いたままの順不同だ。


知るべき「基礎」とは何か

まずコメントの意図を整理しよう。知るべき「基礎」とは“取り組み、知るべき第一の、大事な事”だろう。専門知識を指しているようには感じられない。むしろ、基礎知識、避けて通ることのできないものの理解、だろう。とすると、恣意的ではあるが、おそらく「きちんと物事の基礎部分を知ろうとしないと、知ったつもりで自己満足に終わる」ということか。あるいは、「きちんと…(中略)…しないと、実際にやる段階に到らずに終わってしまう」、と。
前者の場合を考える。私は確かに「これ以上何も言うことはできない」と、また「ただ、別の何事かを私が分かる言葉でしか、言うことはできない」とも書いた。だからといって、考えることをやめていいわけではない。目をふさいでいいわけではない。もし分からないのであれば、どのような形であれ理解しようと努力しつづけねばならない。
後者の場合を考える。知るということは実際に行為することと全く同じではない。「行為する」とは、ここでは「何かを言う」ということでもあるだろうか。特にこうやってとりとめもなく文章を書き連ねるような場所では、何かを書いたことで自己満足に陥ってしまいがちである。私は何事かをした、と。同時に、こうも言うだろう。私は別に何もやっていない、と。この両極端が混在し、時に偉そうなことを口走り、時に卑屈になり下がることもある。私自身がいまだに整理できていない部分でもあるが、どちらにせよ、やることをやらず、やっていないことをやったと言い張るような愚は犯したくないものだ。


「やったつもり」になっているのか

否。私はこれを回避してきた。今回もそれだけは回避しようとした。だからこそ「これ以上何も言えない」と書いたのだ。「やっていない」のならば事実、「やっていない」のだ。そこに千万言を費やしたとしても、「やっていない」ことに変わりはない。何事についてもそうだ。ただ、ここに文章を書き連ねることですら、そこに実際の働きかけが存在しないのであれば、それは「やっていない」のと同義だ。
また、「やったつもり」になることとは、「主体的に関わることなく、外部から関係者であるかのように何事かを行う・言う、あるいはそうしたと思い込むこと」だとも思う。これは自分が超越的な立場を気取っているということでもあり、それゆえに自分には何の責任も伴わないと思っているということでもある。評論家への非難はこの論点から頻繁に生じている。「あいつら何もやっていないくせに、偉そうなこと言いやがって。じゃあ自分で作ってみろってんだ」。しかし評論家であろうと、関わりがないということはまずあり得ないと言っていい。問題なのは、当人が超越的な立場・評論「家」を気取っているということにある。まるで責任を回避するように、恥ずかしげもなく能弁に云々する。何かを言う、ということはすでにかかわっているのと同じなのだ。何かを言う、ということは責任を伴うということだ。何かを言う、ということは自らも傷付くことを含んでいるのだ。
この両方の点から、私は無力であり、しかし何かを言うことが何事かに絡む可能性を持っているということを忘れない様にしている。まずそのために、理解できないことには「理解できていない」ことを認め、その上で自らのスタンスを同時に明らかにしながら「理解できる」ことしか言わないように努めている。たとえ目の前のことが一般的な常識、流行の話題であったとしても、自らの言葉でない言葉は使わないようにしている。責任回避でも、自意識過剰でもなく、ただ自らに降りかかることを受け入れなければならない。


本当に何かを「やる」必要はあるのか

否でもあり、諾でもある。「やる」ことに必然性が感じられない、現実的な意義がないと判断するのであれば、たとえ何を思い描いていようとも、「やる」必要はないと思う。そこに良心のやましさを感じるのならば、やればいい。そして、それに過去/現在/将来で関わるのならば、「やる」必要は確かにある。また同時に、「やらない」と判断したのならばやらずにいるべきだ。
つまり、何事かを理解し、判断し、行動する際に、どの場合にも自分のやっていることを「当然だ」と無批判にとらえてしまってはならない、ということだ。以前も散々に書いている。自分で考えろ、と。自分のケツもぬぐえていないのに、人のケツばかり気にしやがる者が本当に多い。結局自分が何でできているのかもわかっていないから、そのような者が語る「必然性」とやらも、いとも簡単に手の平を返してしまう。


何でもいいから、何かを「やる」必要はあるのか

否。何でもいいのは、(思うようにならないという意味で)周囲の出来事だけで十分だ。やる以上、それがどういうことかを極力理解せねばならないと思っている。「やる」こと自体に意義がある、そう判断するのなら、やればいい。ただ、「何か」をするのに、「何でもいい」という言葉で選択を放棄し、自分を免罪してはならない。責任を可能な限り負い(正当に評価し)、「やる」必要がある。
そして、自らを評価するのは自分ではない。これも以前に書いたが、何年も前に「俺たちには威厳が必要だ」とぬかした奴がいたのをまだ私は覚えている。「私たちは何かをやっている」などと自己効力感に浸るのは愚の骨頂だ。それを判断するのは、少なくとも自分ではない、他の者だけだ。




まだ結論には到っていない。
しかし、思考停止を意味する「分からない」も、責任回避を意味する「知らない」も使いたくはない。いずれも、自分が無能であり、無力であることを自覚するために「わからない」「知らない」――もとい、「私は分かっていない」「知ってすらいない」ことを認めるのは積極的に受け入れていかないといけないのだろう。そして、叶わないと分かっていながらも続けること。知る努力を続けること。結果何もできなければ「何もやっていない」ことになるのだし、何かをしたことを認められたら、それは「何かをやった」ことになるのだろう。そう、「私」という存在など何の屁の突っ張りにもならん。他者あってこそ人々各々の価値が立つのだろう。そんなん捨てて下さい。


だが、これでも答えに到っていない。
私が言っているのは私自身の個人的なこと。一般性を持つはずもないのに、そうふるまっている節がある。しぜんこの物言いは個別のケースを無視し始める。一般論は個人を置き去りにし、救いようのないほど浅い上澄みだけを得意顔で提示して見せる*1。それぞれの事情に沿い、問題は検討されねばならない。共通点、相違点、独自性、等々をも射程に入れて。

*1:この問題は、もしかしたら倫理的な問題が得てして一人ひとりの顔を失ってしまっていることと通じるかもしれない。