「切りとれ、あの祈る手を」第三夜

佐々木中の語り下ろし「切りとれ、あの祈る手を」を読んでいる。今日は第三夜。読解能力の低さゆえ、一日一夜のペースになる。
思い起こせば…以下脚注。*1 論理だてて語ることが苦手なので、散漫につなげていこう。


氏の関心の焦点は、「読む」ことにあるようだ。「取りて、読め」というムハンマドの体験ではないが、ただそのことに命をつぎ込むようにして彼は語り続ける。読む、ということは気が狂うことかもしれない。本当に書いていることが分かったら気が狂ってしまうかもしれない。しかし、ただ読み続けないといけないし、そんな、気が狂ってしまうほどの本を読まねばならない。情報に還元されてしまったものなど。さらにルターが聖書を読み、「『本』を読む自分が狂っているのか、それとも自分が狂っているのか」と行き着くまでに、そしてこう言うまでに。

我、ここに立つ。私には、他にどうすることもできない。


また、彼は第三夜でムハンマドを挙げ、他の宗教団体――「自分のやっていることを宗教だと思っている宗教」を徹底的に指弾もする。「本を読んでいない」「悪しき原理主義者」、と。まとめると逆に煩雑になるので引用しよう。引用段落の冒頭一文は省く。

原理主義者は本を読んでいない。本が読めていない。本の「読めなさ」「読みがたさ」に向き合う勇気も力もない、惰弱な連中なんだということです。われわれは長く長く語って来ましたね。テクストを読むことは狂気の業であると。本を読めば、読んでしまえば、どうしても――私が間違っているのか世界が間違っているのか、この身も心も焦がす問いに命を賭ける他はなくなると。連中は知らないのです。読めるわけがない本をそれでも読むということ、そのなかにあるテクストの異物性、その外在性、そのなまなましい他者性というものを知らない。その過熱なまでの無慈悲さを知らない。それに対する恐れを知らない。あの驚くべき「読め」という命令の狂熱を知らない。逆に、非常に自堕落なかたちで「俺が言っていることが聖書であり、俺が言っていることがクルアーンであり、俺が言っていることが仏典である」という、もう見るも無様なあり方に自足し切って飽きることを知らない。ゆえに、テクストに向き合うという残酷な体験に自らの死と狂気を賭けて身を晒すことができない。そのような奇蹟が世界であり得るということすらも感じ取れない。ゆえに、テクストというものと自分の区別がつかなくなってしまっている訳です。 (p116)

長々しく引用した。おそらく端的に、彼が語る内容の、この部分に集約されることに、私は感じ入ってしまったのだ。もちろん(逃げ口上でもあるが)、人の語ることを的確に理解することなどできようがない。仏典に言う「如是我聞」というスタンスでしか、物事は語れない。誤解もあろう。しかし、だ。


この章、第三夜を読み、はたと気づいたことがある。私は終末、終末論についてまともに考えたことはなかった、と。私が死んだ後、どうなるのかなんて考えたこともなかった。もちろん、世界は続く。この世界は私ではない。私はこの世界ではない。それは、続けて言えば、「私が死ぬ」ということもまともに考えてこなかった、ということでもあるだろう。ただ今の苦しみから逃れる方法を「死ぬ」という言葉に託し、満足していたにすぎなかった。氏のように、繰り返し言おうか。この世界は続く。この世界は続くのだ。では、どうするのか?


またこういったこと、思い致しに、私はこれ以上言葉を継ぐこともできない、とも感じている。これ以上何も言えない。それは彼の言葉が絶対だからでも、核心に近づいているからでもない。私、私自身はどこまでも追認者で、欠格者で、他者だからである。オリジナリティを持っていないのだ。主観的な話だ。しかし、そうである以上、私は語るべきものを持つことができない。世界は続いていくし、私の言葉はあなたにとって意味を伴わず、声であることはおろか、音としてしか響かない。彼は「文学」――彼は相当に広義の捉え方をしているようで、誤解は容易に立つだろう――こそが「革命」だという。確かに、そうかもしれない。夜を越え、明日を生き抜く(この言葉にはどうしても笑ってしまう)活力を与えてくれる言葉かもしれない。何かしら熱いメッセージを持ち、あるいは時事を喝破し、罵倒することに共感を呼びうる力を持つものかもしれない。しかし、しかし、何と言えばいいのか、地に響いてこないのだ。手軽くアマゾンのレビューでも引いてみよう。「この本と著者が主張する革命には下部構造が、無い。土台が、無い」。また、「無頼なインテリにありがちな超越野郎」でこういう輩は「かつての学生運動の終焉時に多く現れました。運動で挫折したから表現で頑張るみたいな奴で、しょうもない同人誌を出したりしただけで自然消滅してしまいました」。
私にも、まだわからないのだ。佐々木氏とこの世の行く先、いずれをも測りかねている。私はこれ以上の言葉は持たない。ただ、別の何事かを私が分かる言葉でしか、言うことはできない。

*1:思い起こせば、その昔10代前半までは多くの本を読んでいたものだ。年齢に見合うようなものばかりではあったが、童話、民話、神話などを探しては読んでいた。中学校では図書館が新刊を定期的に入荷してくれることもあり、興味を持った本を手に取っていた。今でも覚えているのは『カッコーの巣の上で』『オキーフ』『まだ見ぬ書き手へ』。高校に入ると途端に活字が手につかなくなった。これまでも挙げてきたように、ひたすらマンガ雑誌の立ち読みだった。どれだけ早く読めるかをも意識するようになっていた。しかし、活字は頭に入って来ないのだ。そう、『あさきゆめみし』『日出処の天子』はマンガの中でも全く理解できず、読むことが苦痛で、読んだ気になれなかった。大学では本を読まねばならぬ機会が増え、少しずつ読んでいたが全く頭に入らない。一文節ごとに意味を探り、次の文節では自分のことを思い出してそれに耽る。時間はあっという間に過ぎ、次第に読書するという姿勢を取り続けることが苦痛になっていた。だからか、いつの間にか図書館は昼寝の場所になっていた。読んでいるふりをしながら寝る。寝物語はかつての同居人が好んでおり、それをなぞるようで認めたくはなかったが、結局はそれよりもたちが悪かったわけだ。そしてこの期に及んで焦り出す。時間が、ないと。