よしなしごと

指示代名詞や指示語を使って、あたかも自分が特定のものを意識していると思いこませている。「それは」「その」…そこで指していると思っているものはどこにもない。「想定している」だと?いつも屁理屈を捏ねては正当化しようとする。誰も支持していないのだよ明智君。そう、自分自身が何かを考えている、と言い訳するために指示語を多用するのだ。いい加減に認めた方がいい。はっきりとした物事などありはしないし、それでももし誰かがあると言い張るのならば、それこそ当人の思い込みなのだ。客観的・主観的だと?まだそんなたわごとを言っているのか。客観も主観もない。とりあえず、自分だけで根拠無く判断したものを主観と呼び、周囲の大多数の人間が共通してもつであろう判断を客観と呼ぶのだが、これらの間にあるどうしようもないあいまいさを誰が切り分けることができるというのか。お前が考えていると思っていることは外から仕入れた知識の援用でしかないし、人々が考えていると思っているものは、その実大多数の虚妄でしかないかもしれない。
もう同じことを言い続けるのはやめにしないか。こんなことを何百回と繰り返し続けて、ああ、空に湧いてくる雲、細い八本脚で私のもとに忍び寄ってくるその柔らかな音。かさこそ、かさこそ、隣の方は物が宙に舞っていると言って慌てている。これはもはや盆踊り。誰もが抱くその夢を、はっきりと口にして言ってみたり、覚めた頭で目の当たりにしているだけのこと。雲だろうが、地蔵だろうが、肉塊だろうが、大きな目鼻だろうが、白うねりだろうが、何でも切り分ければいいってもんじゃない。ここに現れているのはどうしようもない姿だけ。醜態をさらしてなお、歌い続けよう私は、ただ脛毛の固さを知って感銘する。細く肉も削げ落ちて骨と皮だけになったその両足も、切り払ってしまえばあなたは何事か言うだろう。呻き、叫び、呟き、口ごもり、人の言葉ではない音を私は耳にしたいので、あなたの大事にしている物を切り落としたのだ。それでもなおお前は正気の人間だと思っているのか。五体満足な状態で、そんなことはとっくに気付いていなければならなかったのに、今ごろになって大切なものが何か分かった……と、そう言うのか。目から蜘蛛の足が生え出しているよ。指からちょうちょが羽化しようとしているよ。カマキリが、あなたを頭から齧ろうとしているよ。足だって、手だって、もう、食べられてしまうのを待っているのだ。私は私ではない。あなたは私ではないし、あなた自身でもない。分かり切ったことも、分からないでいることも、もう何も口にしたくない。見たくないし、聞きたくない。知りたくないし、言いたくもない。湧いて出てくる泉のように、私ではない何かが、突如として自分を食い破って現れることを心から願ってやまないのだ。あなたの微笑みも、さげすみも、怒りも、ねたみも、だれもが分かっている事をゴミの山から吹かれて舞い散るカスのように風に乗って消えてしまえ。
いや、まだ言い続けるのをやめないでおこう。ただ、言葉をつないでいようではないか。天気をめぐる世間話で、表面上のコミュニケーションから知己を得ようとするその態度は、そこで陰湿かつ軽薄な行為が行われていることを決定的に無視している。もちろん、「今日はいい天気ですねえ」電気が走ろうとも、蚊柱が顔面を直撃しても、とりあえず言ってみることで何かしら、正気が保たれる。もちろん、保たれる正気は私のものでもなく、相手のものでもない。それは見かけ上の約束しようと試みられた言葉のつなぎ止め方、正気とは茶番である。相手が何か話しだすだろう、またはこれで口火を切って何事か話を広げるよう準強制的に水を向ける、と。とんでもない陰湿さである。しかし、その問いかけに「あなたは私に何を聞きたいのですか?これ以上私を詮索するのをやめてください。本当に嫌なんです」と言ってしまうのはあまりに正直すぎると思わないか。それはこらえるべきところだ。こらえるとはにすいに永いと書く。。にすいを知らなければさんずいの点を一つしまっておけばいいこと。ほんとうにこいつは嘘ばかりしか言わぬ。相手の言わんとする事を読み始めるのはここからである。別段、しかしこんなもの、読まなくてもいいのだ。犬に食わせてしまえばいいのだ。拾い食いしてくれるかもしれないし、。見向きもされないかもしれない。夫婦喧嘩も食べてくれないような世の中だから。だからこそ、もっと深イイ話を、と求める向きもあろう。これもまた驚くべき軽薄。深い深いと思っているのはお前の業。浅い浅いと思っているのはお前の知性。そんな尺度で何事かを語ろうなんて、耳をふさいでワーワーワーだ。白いおたまじゃくしになって飛んでいけ。何も語れない事をまずは知っておくことだ。何も分かることなど無いということを、そのだらしなく垂れ下がったどてっぱらに刻んでおくべきだ。無自覚であること、それはもはや罪であると私は昔言ったような気がするが、やはりもう少し言っておくと、つまる所みんな罪人なのだ。だれもが知っていることなどないし、誰も知らないことなどない。世間の常識と言う錦の御旗をお持ちの方は、その旗にくるまって朴葉焼きの要領で食べられてしまえ。「私の常識は、世間の常識!!」すばらしい、スタンディングオベーションで迎えねばなるまい。見事なジャイアニズム。うんこれは動物園送りが決定である。母子連れが指さして「ほらゴリラだよー」と云々。常識すなわちコモンセンス、加賀谷すなわちう○こしろ、何も変わりはしないのだ。黙っていれば地蔵と間違われ、囚われることも無かったろうに。雉も串焼きにして食うとうまいのだろうか、少しは人の快楽に役立つのかもしれないし、母子連れの情操教育に非常に役に立つことだろう。「スタンディングオベーション!!!」「スタンディングオベーション!!!」「スタンディングオベーション!!!」………