私たちの誠実な言葉でさえも、あなたには通じない。
どれほどの言葉を費やしてあなたに語っただろうか。どれほどの誠実さをもってあなたに語っただろうか。それらはすべて、あなたの前では水泡となり、まるでそこに現れなかったかのように消え去った。我々はあらためて自問せねばならない。我々の誠実さは、真にあなたへ向けれられたものだったのだろうか。恐らく、この問いに答えられる者はいない。なぜなら、我々の意識は我々のものでしかなく、仮に伝えたところで、それは少なからず曲解されてしか伝わらないからだ。より端的にいえば、私はあなたではなく、あなたは私ではない。あまりに当然のことなのだが、自分自身と似た形を持った者と、何がしかの疎通の可能性を見てしまった我々は、自身の言葉があなたに十全な形をもって伝えられうる、と思ってしまったのだ。これは我々の根本的な罪だ。誰も赦すことのできない、誰も償うことのできない罪だ。もはや神など想定すべくもない。そもそも存在しないものを存在しているように思いこんで、それが何の役に立つというのか?あなたはいなかったのだ。「あなた」という存在が、ではなく、「いる」すなわち、我々が期待しているような形でここに存在しているわけではなかったのだ。そう、我々はここから始めよう。よりあなたに伝わるように声を高らかに上げ、深く響きわたらせよう。おそらく、それでもあなたには伝わるまい。しかし、今となってはそれでよいのだ。伝える、ということを改めて問い直し、そこで蠢いている「何か」がどこへ向かうか、ただ見つめ続けよう。これはワトソンやスキナーが称揚した“新たな心理学”と同じ道を歩むものではない。そもそも関わるということは、「何か」と関わり続けることであり、こちらが一方的に操作することに帰結するものではないからだ。蠢く何かが犇めき合うこの異形のはざまで、我々は何を伝えられるだろうか。生は、根本的に恐れをはらんでいる。絶望を背負い、自らが自らにさえ伝えられなくなるような可能性をも予期しながら、必死に声を発し続けるのだ。そこではただ、発せられた、という事実だけが我々にとってのよすがとなる。誰かが何かを聞きとって、蠢いてくれさえすればそれでよいのだ。いや、もはや我々の声に気付いてその「何か」がうごめいたことさえも、保証することはできない。生きていることこそが迷妄であり、ただ、それでもなお何かをし続けることこそが、我々にとっての「誠実さ」となる。