レヴィナスの言葉を少しずつ手繰り寄せよう。彼の言説に現れる「男性的」「女性的」、そして「多産性」「父子関係」という呼び方は、極めて強い反発を引き起こしている。では、主体が女性であれば、彼の論理は通用するのだろうか。二階堂奥歯も「とても冷静ではいられない」とこぼした。レヴィナスユダヤ教の観点から、聖書を丹念に読み込み、そして象徴的な表現としてこれらを用いていることは少なからず彼の文章を読んだことがあれば分かるはずだ。しかし、性という最もナイーブな側面にかかわらざるを得ない言葉を、彼はどうして使う必要があったのか。彼は根本的な性差別者なのではないのか?という疑念は誰の頭をもよぎる。私は、これにしっかりと応えることができない。しかし、かろうじて言える――言いたいのは、彼の言説が女性の役割を社会的認識のもとに限定し、貶めようとしているものではないということだ。彼の思慮が、反論を呼び起こすという可能性に向かわなかったとは考え難い。もし、彼がこのことを想定していたのであれば、今後起こりうるであろう反発を乗り越え、言説はより広がりと深まりをもって展開される、と考えていたのではないだろうか………なんてことを内田樹が言っていたような気がするんですが。こう言うのを責任転嫁、思考停止と言います。