車谷氏の“呪い”

車谷長吉、彼の作品を「愛」読するなどと、私は考えたくもない。彼が記す言葉の連なりは、私を昏闇に引きずりこむ。いや、そんなにいいものではない。彼は己の毒と恥をさらけ出し、普通人なら静かに秘匿するであろうことを、剥きだしにする。そのような自身を愚か者だと断じ、それでもなお、自らの狂気を、人への恨みを描きたてる所業をやめようとしない。彼の描く世界は、ほとんどが同じ舞台だ。貧しい家に育ち、私立の大学に行き、東京の広告代理店に勤め、あるときに逐電し、地元で物書きとして母の怨み事を聞き、父の最期を見、兄妹の生き様を横目に私小説を描き続ける。特有の関西弁で綴られるその姿は獰悪でさえあり、露悪的ではあるものの自己顕示欲と言うには余りに饐えた臭いを放つ。彼はこの半生を時々に切り取り、作品にする。
読むほうとしては、どうにも嫌な気分を背負いながら、腹の内から湧いてくる妙なシンパシー――いや、より忠実に言えばこうだ――「自身に強い劣等感を抱く者の、虚栄心と羨望がないまぜになった、同調しようとする浅ましい思い」――を噛み込まねばならないのである。作中で、心臓発作を起こした作者に医者はこう言う。

医者の話では、あなたは文章を書く人です、しかもあなたの小説を読んで見たら、読む人が読むだけで自分が人間であることが厭になるような内容です、そんなものをあなたは書いているのだから、心臓に差し込みがくる内力が溜まるのは当然でしょう、あなたが身を削ってお書きになっているのはよく分かりますが、我われでも医学論文を書く時は、それだけで胃が痛くなったりしますよ、書くことをお止めになるのが一番いいと思いますがね、と言うことだった。
『飆風』p107、文春文庫「飆風」所収

しかし、私はどうしても読まずにいられないのだ。頭の上澄みを通り過ぎていくような文章を読むよりも、いくらか私を惹きつけるのである。敬愛もできないし、「愛」読とも言えない。だが、事あるごとに、少なくとも1年には一度は、私は彼の『赤目四十八瀧心中未遂』を読まずにはおれないのだ。身が腐るような思いをして、自らを地に叩きつけ、己が己であることを呪わしく思うほどに己を思い知らせるために。